Boulder dash

 

       本当は目なんてずっと覚めていた。

 
 自分の屋敷、自分の部屋、自分のベッド。
 さっきまで俺の上にいた城之内の姿はなく、耳を澄まさなくても、部屋の奥から行けるバスルームの方から、出しっぱなしにされたシャワーの音が聞こえてきた。
 
 この時間が何より嫌でたまらない。
 
 ほんの少し前まで横にいた恋人は、シーツを剥ぎ取られたベッドの上に自分を置き去りにしてバスルームで洗濯中だ。全裸でマットの上に毛布ひとつをお供に残されて、俺がどんなに不愉快かなんてあいつにはわからないだろう。今夜なんて、(汚れたから)と言ってご丁寧に枕カバーまで剥いでいった。
 カバーを剥がれた羽根枕は、頭を載せると薄い布地の下に詰まった水鳥の羽根ひとつひとつの感触が伝わるようで、ごわごわした違和感をもたらした。それでも俺は、その枕に俯せになるみたいに自分の顔を押しつける。まだ熱い身体はせいぜい寝返りをうつ程度にしか動けない。
 クッ。これではあの馬鹿に手痛い仕返しをすることもままならない。
 
 思い出すのは、初めてこの部屋にあいつを入れた夜。
 終わった後に、いきなりシーツを外し出すからなにごとかと思った。城之内が平然とした顔で(洗ってくる)と言い出すから、恥ずかしさに死にそうになった。俺が汚したからだと言いたいのか?!と憤死しそうになりながらも「余計なことをしなくていい!こうすればすむ話だ!」と城之内の手からクシャクシャになったシーツを奪い取った。だがそのまま床に足を降ろそうとして、腰の痛みによろめいてそのまま座り込んで手をついてしまった。
『海馬!』
 慌てて俺を抱き起こそうとする手を逃れて、すぐ近くにある暖炉の所まで這いずっていく。シーツに火をつけて、そのまま暖炉にくべてやろうと思ったのに。
「離せ!」
 明らかに自分より劣っているという予想を裏切った、自分より背も低いはずなのに驚くくらいに力強い腕。大きい手。床にへたりこんでいた身体を後ろから抱えられて、俺は簡単にベッドの上に戻された。
『寝てな』
 城之内はまだどこか熱っぽいくぐもるような声でそう言い残すと、俺の手からシーツを取り上げた。そのまま耳元を撫でるみたいに俯かせて、俺の身体をむき出しのベッドの上に縫い止める。
 そうされたことがどこか屈辱的で、一瞬、暴れてやろうかとも思ったけど、馬鹿らしくて止めた。
 
 あれからいつも、俺はどうにもこの時間が耐え難くてしかたない。
 
 城之内が自分が身体を横たえたベッドから汚れたシーツを抜き取る瞬間。顔を見られて余計な詮索をされるのが嫌で、いつも背を向けたまま寝たふりをしていた。俺が寝てないことなんて、城之内は知っているに違いないくせに、まるで”起こさないように”とでもいった風に、丸めた身体がシーツに当たる腰の下に大きな掌を差し込んでそっと汚れたシーツを抜き取った。
 まるで壊れ物でも扱うみたいに!
 それでも城之内の掌はいつでもひどく暖かくて、いつでも肌にその体温がなじむ前にあっさりと離されることに腹が立った。
 肌触りのいいコットンの感触が肌から奪われて、スプリングの効いたマットの、金糸の刺繍がザラザラした表面に触れる瞬間。
 
 本当は顔から火が出そうなくらいに恥ずかしい。
 (いま顔を見られたら死ぬ!)と、冗談でなくいつも本気でそう思った。
 
       城之内は、今日はやけに戻ってくるのが遅い。イライラする。あのザァザァと出しっぱなしのシャワーの水音を聞かされ続けるのは好きじゃない。連続し続ける同じ音は、時間の感覚を鈍らせる。ずっとここで一人残されたような気分になる。
 おそるおそる、俺は身体を起こしてみた。
 身体は至る所が鈍く痛んでギシギシしていたが、なんとか起きあがることはできたから、サイドテーブルに置いてあるエスプレッソマシーンに手を伸ばしてパチンとスイッチを入れた。少し躊躇って、抽出口にデミダスカップを二つ並べる。給水も挽いた豆も城之内が来る前にセットしてあったから、暫くすると湯気混じりの珈琲のいい匂いが部屋に広がってきた。12気圧以上で20秒ほどかけて抽出してやると、カップに張ったエスプレッソの表面は、細かい泡で包まれて、”タイガースキン”と呼ばれるセピア色した薄い膜模様を作った。
 上出来だ。
 俺はテーブルの引き出しからメーブルシロップの瓶を取り出すと、入れたてのエスプレッソにゆっくりと垂らして、デミダスカップの底をマドラーでかき混ぜた。
 
 カップに口を寄せて、その熱い表面に躊躇なく唇をつける。
 メープルシロップの甘さでまるくなった苦みが喉を潤した。その特有の霧が立ちこめるような珈琲の薫りに少しホッとする。
 二口目を飲み込もうとすると、急にシャワーの音が止んだ。
 (戻ってくるな・・・)と思って、カップをサイドテーブルに置きっぱなしのソーサーの上に載せた。
 
「いい匂い」
 ジーンズとTシャツを着た城之内が、濡れた髪をタオルでゴシゴシと拭きながらベッドに戻ってくる。持って行ったシーツはきっと、いつも通りバスルームに濡れたまま畳んで置いてきたのだろう。
 毛布を被ったまま、膝を抱えるような格好でベッドの壁に凭れていた俺は、顔を上げずにその毛布に顔を埋めた。
「海馬、ちょっとだけ退いて」
 ガサガサとした音に顔を上げると、ベッドの下に何故か丈の低い籐カゴが入っていて、そこには真新しいシーツが畳んだ状態で入っていた。・・・どうしてそんなところにそんなものがあるのかも、どうして城之内がそれを知っているのかも、まるで理解できなくて茫然としてしまう。いや、むしろ予測できるから、だ。・・・俺がまるで動きもしないことなんてお構いなしに、城之内は綺麗にベッドメイクをすませてしまった。
 今までそこに無かったそういう物がおあつらえ向きに用意されているということは・・・そのことをコイツが知っているということは。つまり誰か屋敷の人間がこいつに直接余計な気を回したということで       俺は羞恥のあまりそのままそこで倒れそうになった。
 
「海馬?」
 せめてこの顔だけは見せるまいと毛布を被って寝てしまおうとすると、その手を簡単に止められる。
 
「・・・やっぱエスプレッソの味するのな」
 俺の顎を掴んで、下唇を犬みたいにペロっと舐めた城之内がそういって笑った。余裕いっぱいの顔が癪に障って、そのニヤけ面を掌で思わず無言でバチンと叩いていた。
 
        本当は、そんな惚気じみた行為さえ嫌じゃなくなってる自分が一番嫌なんだ。それが判っているくせに、照れた顔を隠すために頭から毛布に丸まって恋人に背を向けた。
 
「ごちそうさん」
 
 城之内の甘い声がする。クスクスと悪戯するみたいな仕草で毛布からはみ出していた耳に唇を押しつけられたから、照れと怒りをミックスした思春期の中学生みたいな心境で、俺はそのまま寝たふりを決めこんだ。
 

 

the end