観覧車のある風景
 
 ある休日の午後の風景。

 オレと海馬が、当たり前に二人で外で逢ったりするようになってから、最初に迎えた秋のある日の、なんてことない些細な記憶。

* * *
 
「ずっと思ってたんだけどさ」
          ゆっくりと足下から地上が遠ざかっていく。広くはない空間に二人きり。
 持ち込んだバーガーワールドの紙袋から、揚げたてのポテトのいい匂いが漂ってきた。目の前で海馬は、伊達っぽい細い黒フレームの眼鏡をかけて、分厚い書類のファイルをパラパラと捲っている。

「なんでここの観覧車は真っ黒なわけ?」

 海馬ランドの一番奥にある大観覧車。
 全長165m、直径は150m近くあるそれはロンドン郊外にあるロンドン・アイを超えて世界最大の大きさを誇るらしい・・・らしいというのは、まぁ乗りこんだゴンドラに流れるアナウンスがそう告げているからだ。
 海馬に言わせると数年後に建設が予定されている上海の200mクラス観覧車が出来上がるまでの間は、おそらくこれが世界一だろうということだった。観覧車、という取り立てて珍しくもない遊具がこの遊園地でも1,2の人気を誇るのには世界一の高さ以外にも理由がある。
 まず、真っ黒で塗られたこの観覧車は不気味なくらい存在感があった。赤や白一色で塗られてたそれを見たことはあっても、黒一色なんていうのは他で見た憶えがない。 それでも海際に作られたそれは青い空と海を背景にすると、まるで大輪の花が咲いた1枚の切り絵のように美しかった。 それに普通と違って、黒檀色の鉄筋の骨組みと強化ガラスで作られているゴンドラは、8人乗りの大きさだったが足下までもがシースルーになっていて、まるで本当に空中散歩をしているような気分に浸れる。まぁ高所恐怖症には最悪の代物だったが。
 そして夜になれば今オレ達が乗るカプセルみたいなゴンドラは、青白いライトが明るく灯る。大きな観覧車本体の骨組みの内側からは、花びらのように真っ白い光が幾筋も放たれるから、闇の帳が降りてさえ、観覧車は黒いシルエットとして夜空を彩った。まぁデートコースの仕上げにはもってこいなのだ。

「なぁ・・・聞いてる?」
 オレ達は向かい合って座っていた。この状況で無視されるのは、ちょっとキツイ。面倒くさそうに書類から顔を上げた海馬が、じっとオレの方を見た。こういう瞬間のこの青い目は嫌みや険もなくて、レンズ一枚隔ててみても、ただただ綺麗なのがよくわかる。
「この前モクバに聞いたら、”あの観覧車のことは全部兄サマが決めたからわからない”って言われてさー。」
 夏休みの午後、バイトの休憩時間に、ちょうどその日プールに遊びに来ていたモクバと昼飯を食べた。つっても、オレが作ってきた弁当とコンビニで買ったパンを二人で分けて公園で喰っただけだったけど。
 モクバが嬉しそうに改装した海馬ランドの話をしだしたからそんな話題になったんだ。この観覧車は、そのリニュアルのメインだったから。
 
「・・・モクバと昼食を食べたらしいな」
 そう言われて、膝の上に置きっぱなしにしてあった袋の中身を思い出した。中身は二人分のベーコンオムレツバーガーに、チリビーンズドック。フライドポテトが一袋。そして足下の紙袋には冷えたフレッシュレモネード。
 海馬との待ち合わせ前に、園内に新しくできたテイクアウトも出来るバーガーワールドに寄って買ってきたのだ。約束の時間は観覧車下に12時半。わざわざ並んでとった整理券。 海馬が今日は休日返上で社長室に閉じこもっていることは知っていた。だから昼の1時間だけ逢いたいんだけど、とダメモトでした電話。
 返ってきたのは意外な答え。それは自分が望んだものでもあったけれど。
(12時半ならかまわない。遠出は無理だ)
 そっけない声でそう言われる。
(じゃあ海馬ランドの観覧車の下に12時半に。待ってる)
 遊園地の入場ゲートにある公衆電話からオレは電話を掛けていた。海馬コーポレーションの本社ビルは、ここのすぐ隣地にあるのだ。社長室はそのビルの最上階だから、見上げたところでオマエの影さえ見えはしなかったけど。
 
「とりあえずこれ喰わねー?」
 海馬に聞かれた言葉で思いだした紙袋を持ち上げて立ち上がる。
 そう言ったオレが自分の質問を無視したと思ったのか、途端に不機嫌な顔をした。
「それはなんだ?」
 じっと見上げるようにそう言う。
「ハンバーガー。下で買ったんだけどココのは結構美味いぜ?」
 ほら、と中に入ってる包みのひとつを取り出して、海馬の手首を掴んで引き寄せるとその掌に握らせた。固くなったままの表情は崩れない。
「・・・出来合いだろう」
 どうして今日はこんなに突っかかってくるんだ。その原因がわからなくてこっちまでイライラしそうになる。それを思い止ませるのは、伝わってくる寂しげな雰囲気だ。
「あ」
 いま海馬が漏らした言葉とその前に自分が無視した言葉を頭の中で並べた瞬間、その不機嫌の原因に思い当たる。
「もしかして、オレが弁当作ってきた方がよかった?」
 それがこいつが臍をまげてる原因だというのなら、全部に納得がいくけれど。
 だけどそれじゃあオマエ、かわいらしすぎやしないか?
 オレがそう言った瞬間に、海馬は渡したバーガーを握ったままの手を自分の目の前に翳して自分の表情を隠そうとする。
「ちがう」
 メガネのフレームがかかった耳がほんのり赤い。最近、コイツの反応は素直すぎて、正直驚いてばかりいる。いいかっこしいの無表情が崩れると、こんなにオレはワクワクする。
「じゃあ次はモクバに喰わせたのより、凝った弁当喰わせてやるから。今日はコレでゴメンな?」
 ここで笑ったら怒り狂う海馬にバーガーを投げつけられかねないから、オレは至極真面目にそう言った。
「ほら、ジュース」
 ・・・暫く黙ったままでいた海馬は、床から拾い上げた紙袋に入っていたレモネードを大人しく受け取った。やっと取り戻したポーカーフェイスで、ストローに口をつけて(甘い)とボヤく。本当は甘い物が好きなくせに、それが格好悪いと思っているのか、口では甘いモノなんて大嫌いだと言ってみせる。
 
「まぁまぁだな」
 ベーコンオムレツバーガーにかじりつきながら、海馬がそう言った。オレは笑いながら、(ほら)と、ポテトの入った袋を手向けた。海馬の長い指がフライドポテトを摘みあげる。
「庶民らしいバランスの悪い食事だ」
 まんざらでもない顔をして、綴る言葉は相変わらず取りなす術もない。でもそれでいいんだ、きっと。コイツはそれで。
 
* * *
 
「・・・さっきの答えは、思い出せないからだ」
 
 レモネードまで綺麗に飲み干した海馬が、ぽつりと呟いた。オレは返事はしないで、代わりに海馬の顔をじっと見た。メガネのフレームに茶色い髪がかかっている。やっぱり余計に表情が見えにいから鬱陶しいな、と思う。
 見逃したくないんだ。そうそうお目にかかれるわけじゃない、まるでリップサービスみたいに予想外の表情を。
「貴様が先刻、この観覧車はどうして黒いのか聞いたんだろう?」
 海馬は、奇妙な顔をしてぽつりとそう言った。
 間があったから、それが何に対する答えなのかがわからなくなる。キョトンとしてるオレを見て、海馬はバツが悪そうにパノラマになってる窓の外を見た。
 
「子供の頃、モクバと観覧車に乗ったことがある。オレの中ではあれが唯一の観覧車のイメージなのに、どんな色だったのか思い出せなかった。ただ青い空に逆光で黒く空に浮かんだ花のような骨組みばかりが記憶に残ってる。これは、それをそのまま再現しただけにすぎない          
 
 そういう海馬の横顔に、観覧車の黒い骨組みがガラス越しに暗い影を落とした。こいつが子供の頃の話をするのは珍しい。滅多に後ろなんて振り返ろうとはしない海馬が口にする過去は、いつだって痛切な記憶を寄り添わせている。そこにどんな傷があるのは触れないでやりたいけど、引き籠もろうとする心の部屋からは引っぱりだしてやりたかった。例えそれが自己満足のお節介だ、と一蹴されるものであったとしても。
 だいたいこんなに近くにいるっていうのに、海馬がこっちを見てくれないのがそろそろつまらなってきた。
「・・・なぁ観覧車が一番高くに上がったら、みんなすることがあるんだけど、オマエわかる?」
 童実野港のヨット乗り場に並んだそろそろシーズンが終わりの小さな船達。よく晴れた空に輝く太陽が、水面をキラキラと輝かせている。いつの間にか頂点に近づきつつある風景を見ながら、オレは海馬にそう言った。
 
         。」
 
 オレはゆっくり腰を上げて、シースルーの床の上に立つ。下に見えるには、次のゴンドラに乗ったカップルの仲良く並んだ頭のてっぺんだ。
 邪魔な眼鏡を片手で外して、座ったままの海馬と目線をあわせるためにゆっくりと屈んだ。
「・・・貴様みたいな輩に、そういう気を起こさせないようにこうしてるんだ」
 そう言って海馬は後ろ手でシースルーの強化ガラスをカツンと叩く。
 オレはその手に自分の手をそっと重ねて、冷たい指先ごとガラスの上に縫い止めた。
「オレは別に他人に見られても恥ずかしくねーし」
 海馬は嫌そうに眉を顰める。
「まるで露出狂だな」
 憎まれ口は続く。でも本当は嫌がってないことをオレはもう知ってるんだ。
 
「黙れって(笑)」
 囁きながら重ねた唇は冷たくて、少しだけスライスオニオンとケチャップの味がする。
 キスをするとき、海馬が困ったように少しだけ目を泳がせるみたいにするのが好きだった。もっと困らせてやりたくて。
「睫毛まで茶色いんだな」
 少し唇を離すと、間近に見た伏せた瞼を見てそう呟く。閉じられた青い瞳の代わりに現れたその長い前髪と同じに茶色くて長い睫毛。その目元にもキスしたくなる。
「・・・いちいちうるさいぞ」
 イライラした声でそう言う海馬が、オレの下唇に歯を立てた。
「痛っ!」
 こいつ、絶対ワザと本気で噛みつきやがった!
 咄嗟にその細い顎を空いた手で掴んで上を向かせると、底意地の悪い口を塞ぐためにもう一度唇を重ねる。海馬に噛みつかれたばかりの唇がピリピリと痛んだ。オレは仕返しとばかりに、ちゅっと音を立てて開かせた小さな口にキスすると、伸ばした舌先で歯裏を舐めるように深く海馬をまさぐる。 
「・・・ぁ」
 戸惑うように漏れた海馬の、その掠れたみたいな甘い声と切なげな表情にオレは満足して目を閉じた。

 ガラス越しに強い日差しと向きあうせいで、瞼の裏は真っ赤に染まった。チラチラと時折掠める観覧車の影を感じて、海馬の心に浮かんだ逆光で黒く空に浮かんだ花のような骨組みがまるで自分が見たモノのように浮かんでくる。
 すぐに逃げようとする唇にオレはしつこく追いすがる。逃がしてなんかやらない。
 
        ああ。この観覧車を降りたら、いま心に浮かんだのと同じ風景を背にして海馬に「好きだ」と告げようと、惚けた頭でオレは考えていた。
 
 
 
 
the end