”ああ、あと少しで12月24日に日付が変わるな。”
そう思いながら壁に掛かった時計を見上げる。風呂を借りてダイニング・ルームに戻ってくると、さっきまで机の上で忙しなくキーボードを叩いていたはずの海馬が、机の後ろに置かれた仮眠用のベッドの上に横になっているのが見えた。
(こんな早い時間に珍しいな)と思いながらも俺は海馬を起こさないようにそのベッドに近づいてみる。至近距離で眠る海馬はまるで、深い眠りの魔法が掛けられているみたいだと思った。
ワイシャツのボタンを2つ外して、(少し横になるだけだから)とでも言いたげな様子で身体を横たえている。更に近づくと、その薄く開いた唇から小さな寝息が聞こえてきた。
その海馬の耳に触ってみる。
起きるかな。起こしたら可哀想だな。そう思いながらそっと触った真っ赤な耳の先っぽは冷たくて。
ずっとうさぎみたいな耳だなぁと思ってた。
ちょこんと焦げ茶の髪のあいだがら先っぽが覗いてるのを見るのが好きで。こんなに赤くなってるのに俺の指の温度より低いのが不思議だった。近づいて見ようとすると、起きそうな気配がして固まってしまう。
「ん・・・」
海馬は甘い吐息と一緒に身体を捻るみたいに寝返りをうつと、俺の手を白い頬とシーツの間に挟みこんでしまった。このまま指を動かしたら、海馬が本当に起きてしまいそうだったから、俺はため息をつきながら、なるべく右手を動かさないように床に座り込んで海馬が横たわるベッドにもたれ掛かった。
おかげで俺は顔だけシーツに押しつければ、まるで子供みたいにあどけない寝顔をすぐ近くで見つめることが出来た。
*
* *
そういや・・・と、俺は海馬の寝顔を初めて見たときのことを思いだして苦笑する。
あれはなんだか眉を顰めるみたいに不機嫌そうな寝顔だった。随分疲れている癖に、警戒心いっぱいの。見てるこっちまで気分が滅入るようなあの刺々しさ。眠っている海馬の姿は、まるで重くて暗い空気の底に沈んでいるようだと思った。
俺は今もまだ続けている妙なバイトのせいで、そんなギリギリの寝顔は見慣れていた筈なのに。
なのにあの時、俺はただ見ているだけで眠っている海馬の纏う濃い闇に引きずり込まれそうになった。
そして初めて自覚したのもきっとあの時なのだろう。
あの夜、俺は(あともうちょっとだけでいいから、こいつも楽になればいいな)と思ったんだ。
あれから2ヶ月くらいになるのかな。
あの後、俺は週に何度かこの部屋を訪れるようになっていた。
毎晩バイトが終わった帰り道、遠回りになるこのホテルの下をわざわざ通って帰る。そこから上を見上げて目を細めると、高層階のこの部屋の照明が点いているかどうかを確かめた。黄色がかった淡い光がカーテンの隙間から見えたらそれは海馬がそこにいる印。
そしてドアを叩けば眉を顰めるような顔をした海馬が玄関に現れて、歓迎はされずとも俺は部屋の中に入れて貰えた。
深夜にひとり、屋敷には持ち帰れない書類や図面をチェックする姿を眺めながら、ソファーに転がってテレビを見たり、勝手に入れた紅茶を飲んでみたりする。席を立った隙に海馬の好きなエスプレッソを入れて机の上に置いてやれば、まるで人になれない猫みたいに俺の目につかないようにそれを飲んだ。
ただ同じ部屋の中にいるというだけだった。
さしたる会話があるわけでもない。なんたって相手は仕事中だ。それでもたまにはモクバのことを話してみたり、たわいない学校の話をすることもあった。
数えるほどしかないけど、海馬の息抜きの決闘につきあったこともある。
そんな夜を重ねていくうちに、海馬は少しずつ・・・本当に少しだけど、なにかが変わってきてるような気がした。それは俺がどうこういうのはおこがましいことなのかもしれないけれど。
・・・なんだろ。そうだな、寝顔が少しずつ変わってきた。
この部屋に泊めて貰う夜。海馬はいつも俺より遅くに寝て遅くに目を覚ます。俺は眠くなったらサッサとテレビを消して、『おやすみ』とだけいうと海馬は使わない部屋のベッドで眠りにつく。朝はバイトがあったから、海馬がまだ寝ている時間に目を覚ました。
泊めて貰った礼だから、と、ここで目を覚ました朝は海馬の分の朝食を用意してこの部屋を後にする。それは目に見えない約束のようなもの。
朝食を食卓に並べた後、何時の頃からかはもう忘れたけど、海馬の仕事机の後ろに置かれた仮眠用のベッドを覗き込むようになった。
まぁ海馬が起きていたことはないんだけど、その寝顔を見てから出ていくのが何となく習慣になっている自分がここにいる。
そこで最初に戻るんだけど、最近の海馬は随分あどけない顔で眠るようになったという話だ。初めの頃と違って今の海馬の寝顔は、年相応の子供っぽい仕草が抜けきれない寝顔をしてると思う。
ワイシャツにスラックスのままでシーツの上に横たわる身体。こいつ、背が高いのに痩せすぎだなんだよ、といつも思う。こんな風に大人しくしてるとただ綺麗なだけだんだ。
起きないだろうか・・・と少し期待する。
海馬が身じろぎをした隙に、シーツと海馬の頬に挟まれた指先をそっと引き抜くことに成功した。なのになんだか名残惜しくて、俺はベッドサイドに膝をつくようにして海馬の伏せられた長い睫毛がたまに微かに震えたりするのを見ていた。
髪の色と睫毛って同じ色なんだなぁと感心する。焦げ茶っぽい色。この瞼の下にはあの青い瞳が隠されてる。
ああそうだ。こうやって海馬の寝顔を見ている時は、いつも起きてくれないかと甘い期待をするんだ。多分、狸寝入りでも都合良く起きてくれはしないだろうけど。
オレは自分の気持ちを計りかねているんだと思う。
オレの海馬に対するこの感情をどういう風に説明すればいいんだろう。海馬のボタンを2つも外したシャツの襟元から覗く白い喉や肌がもっとよく見える角度がないかと目を泳がせてしまうこの感情を。
好きなのかな、と思う。
まさかな、と思う。
恋人ではなくて、あまつさえ友人ですらない。
海馬ならきっとそう言うだろう。そう言いながら平然とした顔でまるで忌々しいものを見るみたいにオレを見るかもしれない。
でもさ。
もしそうなら何で俺をこの部屋に入れてくれんの?オマエ。
喉元まで出かかっているくせに、きっとずっと海馬には告げれない。俺が呑み込んだままの疑問符。
もうすぐ今年が終わって新しい年が始まるけど、きっと今の中途半端な関係に変化はないような気がしていた。軽い絶望に似た感情。
俺はきっとこのままで。ずるずるとこんな関係のままで、来年もこの部屋に通っているんだろうな。
漏れるのはため息か、それとも欲望に似た絶望感か。
「そういやクリスマス・イブだっけ」
今日の夜はきっと海馬も弟が待つあの広い屋敷に戻るのだろう。
俺も今日と明日はバイト先の本店のヘルプで、クリスマスケーキの路面売りを手伝うことになっている。それが終わった年末は短期で入ってる深夜バイトが続いたり、遊戯達と遊ぶ約束もあるから、ここにはもう年内は来ることがないだろうということににわかに気づく。
・・・そしたらなんだかえも言えぬ寂しさが背中からジワリと押し寄せてきたんだ。
目を覚ますな。どうか目を覚まさないでくれ。
ゆっくりと海馬の寝顔に自分の唇を寄せながら、さっきまでとは反対にそう願う。
俺は願いながらゆっくりと、さっき触れたばかりの海馬の茶色い髪からうさぎみたいに覗く、ほんのり赤い耳の先に唇を一瞬だけ押しつける。
「・・・勝手にもらってもいいよなぁ?」
もしも海馬が本当は目が覚めていたのだとしても。恵まれない俺へのささやかなクリスマスプレゼントだと思って、どうか見逃して欲しいと思う。
暖房にゆだったみたいに赤くなっていた耳がもっと赤くなっていた気がしたけど、一瞬で浮かんだその先の妄想は、ちょっと都合よすぎるよなと自分で呆れてしまう。
そしてうさぎ耳に触れたばかりの指先で、俺は海馬の眠るシーツの上にうろ覚えの綴りのままの英語を書いてダイニングルームを静かに後にした。
I
wish you a merry Christmas.
the
end