浮気
    
 
                明日にはこの関係は『浮気』になってしまうかもしれない。 

 まるでそれが日常のことであるかのように、社長室のソファーに座った城之内が紅茶を飲みながら雑誌を捲っている。ちらりとみたパソコンの左端に表示された時計はもうすぐ22:00を過ぎる。月曜のオフィスにこんな時間にやってきたコイツは、自分のバイトが終わったところだから、これから一緒に飯を食おう、と言った。
 そういうことをいうこの男を、追い返すことなく、あまつさえ秘書に運ばせた夜食を一緒に食べたりするようになったのはつい最近のことだった。
『今から行っていいか?』
 たった一回、夜の町で偶然会った城之内と夜食を食べた。それからしばらくして、そういった電話が掛かるようになった。
 どうやら社長室へ直通の電話番号を教えたのはモクバらしい。
 ここはこの犬と自分、二人だけの完結した空間だと思っていたのに、本当はそんなこともないらしいと言うことを最近知った。
 城之内は俺とのことを誰かに(たとえばあの口さがなさそうな”お友達”だとかに)言ってる素振りはなかったが、所詮単純な男だ。何となく周りが悟りだしているのかもしれない。

 今日は城之内が夜食を持ってきた。
 駅前に新しく出来たベーグルショップで働きだしたらしく、残り物のベーグルをたくさん持ってきた。
「俺はそんな残り物など口にしないぞ」
  そう言ったら、城之内はそれを予期していたような顔で目を細めて笑い、『お前のはちゃんと金出して買ったヤツだから安心しろよ』と言う。
 だから食べない口実をそこで見失ってしまった。

 クルミとイチジクを練り込んだ生地に、スライスサーモンと明太子和えのクリームチーズを挟んでるベーグルを一口食べる。
「旨い?それ、今一番人気があるんだよ」
 自分はプレーンなものにブルーベリージャムを塗りつけて口いっぱいに頬ばっている。
  口の端に残ったジャムが気になった。モクバが子供の頃、やっぱりそういう食べ方をする度に、小言を言いながら口元をぬぐってやったのを思い出す。フッと手を伸ばしかけたが、それに気がついた城之内がじっとオレを見てきたので慌てて手を下ろす。

 …違う。

 今の俺はそんなことを気にしている場合ではないのだ。
 今宵、ここで大きな選択を強いられている。

 ***

「…明日、城之内くんが好きな女の子に告白するつもりらしいんだよね」
  新年になって初めて出席した授業の合間、あの犬がいない間に近寄ってきた遊戯が俺に向かってそんなことを言った。
「…それが俺に関係あるのか?」
「関係ないなら僕たちは願ったりかなったりなんだけど?」
 無邪気を装いながら1mmも可愛げなく笑う顔が瞼に残る。

 確かに。

 そう言われた瞬間、不愉快に感じたのは確かだ。 購買に行っていたのか、パンの入った紙袋を手にして戻ってきた城之内に近寄った。
「…明日は暇か?」
  遊戯がいなくなっていることをチラリと確認してからそう聞いた。
「え?明日?!」
 教室でこんな風に話しかけたのは初めてだ。なんとなくチラチラとクラスにいる人間がこっちを気にしているのが分かるのが腹立たしかった。
「…あー…明日はゴメン、無理」
 残念そうな顔でそう言われたものの、まるで急に拒絶されたみたいな気持ちになった。
 なんだ、それは。
「…別に、ならかまわん」
 そう言って踵を返す。
  なんだか聞き耳を立てていた連中が、みんな俺を嗤っているような気がして不愉快だった。腹立たしい。どうして俺がこんな男ごときに…。
「海馬?」
 その声を背に、教室のドアをガラリと閉じた。

 ***

「明日は無理だから、今夜来てみたんだけど」

 そんな言葉を上機嫌で歌うように口ずさんで、のこのこと城之内はここにやってきた。
 本当は追い返してやろうと思った。
 お前なんていらない、と、追い返してやりたかった。

『…明日、城之内くんが好きな女の子に告白するつもりらしいんだよね』

 昼間にあのヒトデに言われた言葉がぐるぐる回った。
 ここは境界線上だ。
 今日、自分とこの男の間には何もない。それは別に問題はない。この男が他の誰とも何もないのならそれで構わない。だがしかし、もしも昼間の遊戯の言葉通り、明日には誰かのものになってしまうとしたら、この夜に境界線が引かれているのだ。

 たとえば今夜、俺がこの男に手を伸ばして関係を持っても浮気と呼ばれることはない。
 だが、明日になって、もしもコイツに決まった相手が出来たとしたら、俺がこの男に触れることは浮気と呼ばれるものになる。

(浮気)

 この俺が、こんな男ごときに。
 浮気だと?

「海馬?」
 そんなのはまっぴらだ。
  その瞬間、ベーグルを握ったままの腕を掴んだ。じわり、と唇を近づける。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、城之内は俺を見ていた。
 震える。
 馬鹿らしい。馬鹿みたいだ。

 あと10センチで唇がぶつかるだろうという距離まで来て、俺は固まってしまった。
 城之内はさっきとはうってかわって、冷めた目でじっと俺の顔を見ている。まぁそこそこ見れる容姿をしているが、口の端についたままのジャムのせいで、ずいぶん間抜けに見えた。
 いまここでキスをして、セックスをすればいいんだろうか。
 自分からそんなことを仕掛けるなんて、ありえない気がした。

 そう思ったら、動きが止まってしまう。自分から目を逸らした。そんなオレをにやけ面をして見てるんだろうと思ったが、もう一度顔を上げた視界の城之内は、固く目を閉じていた。
「城之内」
 そう呼んでも返事はない。
 閉じた瞼も開かない。

 でも口の端のジャムは残ったままだ。

 俺は少しだけ躊躇ったが、舌先をのばしてそれを舐め取ろうした。城之内の首に両腕を回して、恐る恐る唇を寄せる。

 拒絶など、させるものか。

 そう思いながら舐め取ったジャムはひどく甘かった。
 城之内はまるで人形みたいに微動だにしない。
 もうすこし長く唇をあわせた。ちろりと割れ目を舐めるとうすく開く。その間に舌を差し入れようとしたら、あごを捕まれて乱暴に唇を貪られる。

 そこから、着ていた服を剥ぎ取るように脱がされた俺が、城之内とソファーの上で身体を繋ぐのなんて、本当にあっという間だった。

 ***

「…いいのか?」

 行かなくて、いいのか。
 そう言う意味で、俺は城之内にそう聞いた。

 俺の身体を隅々まで触りつくして、舐めつくした男が幸せそうに笑う。笑いながら、途中で数えるのを止めるくらいしたキスを、もう一度俺の唇に押しつける。
「なにが?」
 明け方近くまでソファーの上で絡み合っていた相手は、俺の背中を撫でながらそう聞いた。
「今日は大切な用があるんだろう?」
  俺は先手を打ったのだから、これを、この夜を、浮気だなんて言わせない。
 だが、城之内は首を傾げながら、俺が予期せぬ言葉を口にした。

「ああ。夜にオフクロと妹に会うんだ。俺、誕生日だから」

 俺はその城之内のセリフに、返す言葉を失った。
 頭に浮かんだのは、あのヒトデ頭の意味ありげな笑顔だ。

 ……馬鹿らしい。

 本当に馬鹿らしくて、目眩がした。こんな簡単な嘘に引っかかるなんてどうかしてる。

「ひとつだけここで約束しろ」

 これは間違いなく、遊戯の仕掛けた茶番だ。あの男は、コイツに気の利いた誕生日プレゼントを用意したつもりに違いない。
 だったらこのくらいは誓わせなければこちらの気が済まないではないか! 

「…浮気なんてしてみろ。お前の命はないぞ」

 恥ずかしいくらいにやけた城之内は、『うん、わかった』と調子のいい返事をしながら俺の太腿をゆっくり撫で上げる。
 
               もう一度深く口づけながら、俺はその頬をめいっぱい抓りあげた。


 
 

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