オレは歩道橋下のガードレールに凭れながら、不法滞在っぽいブラジル系の連中が路上で演奏している民族音楽を聴いていた。
童実野駅前午後十一時。駅前ビルに設置された大型テレビに時計が映し出されて、まるで教会みたいな鐘の音が鳴っている。一日に十回鳴るというこの鐘の音も今日はこれが最後だ。
ゴォーン、ゴォーン、という鐘の音と、南米特有の笛の音が混じって面白いセッションみたいに聞こえる。ヴォーカルの声は低いのに不思議と高いキーが綺麗に出ていた。メインヴォーカルに絡みつくソプラノ。そこに乾いた高い笛の音が薫るように漂う。
簡単なポルトガル語の歌詞をオレも口ずさむ。
何度もここに来るうちにいつの間にか憶えた。
目を閉じると、延々と続くウードのオスティナートと薄い山羊皮の片面太鼓タールの音を思い出す。
民族音楽というのは地方は違えどどこか共通のノスタルジーが存在してる。
帰っておいで、と呼ぶ声に似てる。
帰っておいで。
いったいどこに?
ポン、と肩を叩かれた。
ギョッとして振りかえると、予想しなかった人物が後ろに立っている。
「なんだ。王サマかよ 」
その身に纏う凛とした雰囲気は、武藤遊戯のそれとは明らかに異質のものだ。
「・・・どうした?こんな時間に」
それはこっちのセリフだ、と口にする前に、(オレは杏子を家に送った帰りだ)と先に言われた。
寂しい曲が終わり、オレ同様に路上にたむろしてる観客からパチパチと拍手が起こる。うって変わった明るい曲の演奏が始まった。
「飲むか?」
手にしていた黒生の缶を王サマの胸元に押しつけると、一瞬躊躇った後、受け取って軽く煽る。
「一瞬、獏良の方かと思った。そんなしおらしい顔をすることもあるんだな」
飲みきった缶を足下に置くと、王サマは、オレと同じようにガードレールに腰掛けた。
「しおらしい?フザケんじゃねーよ、王サマ!」
ヒャハハ、と笑いながら、胸ポケットから取り出した煙草に火を点けた。いるか?と開けた箱の口を向けると今度は首を横に振られる。
「 前にアンタに聞かれたよなぁ。」
メンソールの鼻筋を抜けるような感覚に目を細めながら、吐息のように口にした。
「”帰りたいのか?”、って」
盛り上がる演奏にかき消されそうになるオレの声を聴きのがすまいとして、王サマがオレの顔を覗き込んでくる。
「ああ」
興味があるのかないのかわからない、感情を含まない声。
「わかんねぇんだ。本当。・・・どこに帰りゃいいのか。オレはどこに帰りてぇんだろうなぁ・・・」
オレもあんたも。
ちょっと馬鹿みたいに平穏な日常に迷い混じまうと、途端に自分がまるで異質なもののような感覚に囚われる。
いつからオレはそんなことを感じるようになったんだろ。ただ、こういう全部が、宿主からのよくねぇ影響なのはオレでもわかってる。宿主に感情を重ねるように日常を送っていると、まるで了(アイツ)と同じような凡庸とした人間としての人生が、自分の目の前にも広がっているような錯覚にとらわれんだ。
「 この間は帰る場所なんて無いような顔をしてたぞ」
”凛とした”というのは、こういうのを言うのだと。
そんな見本のような表情に、オレすっかり吸うのを忘れていた煙草をアスファルトに落としてスニーカーの先で踏みにじる。
「ねぇよ、そんなの。オレにも、アンタにも」
そう言って、今日の演奏が終わったバンドにオレも拍手を送る。その音が他の連中のそれに紛れると、ガードレールから腰を下ろした。
まるで解体されていく舞台のように、ちょっとしたライブハウスが只の雑踏に姿を変えていく。
(二人分)と財布から取り出した千円札をオレは楽器箱に落とし入れた。
ありえない。
ありえない未来を夢見そうになる。
うっかりすると、この夜の空気に自分が溶けて消える錯覚に落ちる。
「バクラ」
名を呼ばれて振りかえると、腕を組んだ王サマが不敵に笑いながらこっちを見ていた。
「おまえは確かに来世を約束されない種族だが、今を約束されてないわけじゃないだろう ?」
オレ様は思わず苦笑した。
「今しか保証されてねぇから困ってんだよ」
王サマにそう言い返した言葉の意味を、本質を、どこまで汲み取るか予想できない。
むしろ汲み取られては困ることを口にしたな、と後悔しながらオレは時間軸を越えて今なおオレの目の前に立つ男に笑いかけた このノスタルジーを呼び起こしてるのは、いま目の前に立つアンタ自身なのだと、きっと永遠に気づくことのない、その魂に向かって。