夕涼み

 9月ももう半ばを過ぎて、カイロの気温も多少過ごしやすい気温になった。中東の中では比較的過ごしやすい気候と言われるエジプトも、例年6月から8月にかけては一部地方では、日中の最高気温が38度にもなる。北部に位置するカイロやギザの街も、南部に位置するアスワンやルクソール程ではないが夏は十分に暑くてたまらねぇ。
 バクラ(むしろ借り物の器はマリクなのだが)は、頭から被ったクーフィーヤをパタパタさせながら、市場の雑踏を歩いていた。両脇は迫り来るような茶色い壁が続き、古いの店が軒先に連なっている。幾ら昔に比べて近代化が進んだとはいえ、カイロの街並みはいつもセピア色だ。夕暮れ時ともなるとそれは更に顕著となる。ダイナミックに沈む夕陽のオレンジ色をめいっぱい受けて、町全体が赤みを帯びた黄金色に沈む。
 マリクの纏っていたガラベーヤもクーフィーヤも無地の白だったから、自分の身体までこの街と同じ夕陽の色に染まったみたいだと思う。クーフィーヤの布の端が目元に濃い影をつくった。影と光が視界の隅でチラチラする、ここは砂上の街。
 
* * *
 
(バイクで行けば5分もかからないっていうのに!バカじゃないのか?!)
 
 頭の中でそう叫ぶ声を軽く無視した。お坊っちゃんは、うるせーうるせー。たかが30分くらい自分の足で歩けっつの。
 
 もうそろそろ家を出てから20分ほどの時間が経過してた。 
 エジプト博物館の南に位置するガーデン・シティは各国大使館がめじろ押しの高級住宅街だ。エジプトに戻ったイシュタール家の3人は、マリクの姉が通う職場にほど近いこの場所に新しい住居を構えている。もともと姉が大学に通うために借りたというフラットは、近隣の大使館員が多く借りるタイプのもので、3人で暮らすにも十分な広さを確保していた。こっちに戻ってきたあとあまりに綺麗な台所にリシドが驚いていたらしいが、なんてことはなくコイツの姉上様がまるで炊事などしていなかったからに過ぎない。今はこの家の家事全般をリシドが引き受けている。それは別に昔から変わらない、とまるで当たり前のようにマリクは言っていたが。
 まぁそんなわけでこの辺は治安がいい割に新市街にも近いから便利な地区だ。でもまぁオレはこの辺が気に入らねぇ。なにもかもがかしこまったみたいに整然とし過ぎている。
 もっと雑然としてるほうが気が楽なんだ。だから週末になると大学が休講のマリクの身体を借りて羽根を伸ばす。自分の肉体が無いことの不便さ。この入れ物は借り物の違和感が大きいので扱いづらい。しっくりとなじまないシャツに袖を通してるような感じだと、そう当人に言ったらまたウルせぇんだろうからオレもいちいち言ったりしない。
 
 新市街を歩いてアバタ広場を南に下っていくと、イスラミック・カイロと呼ばれる旧市街地に入る。中世スラムの建築が残される町並みは、空に向かって沢山のミナレット(尖塔)やドームがそびえ、カイロが世界一豊かだった時代の名残となっていた。この新市街とイスラミック・カイロの間に横たわるハーン・アルハリーリィは、世界最古の商業地区であり、観光客が思い描く通りのアリババやアラジンの街でもある。喧噪の中、物売りが客引きする声が響き、ミントティーをトレイに乗せた少年達が行き交う。露店には色とりどりのスパイスで作られたピラミッドの芳香が立ちこめていた。暫く歩けば銀細工師達の店が建ち並ぶ通りに出る。時代の感覚が無くなりそうになるこの雑踏が気に入っていた。
 今日はいつもより人が多い気がするのは、夜にエジプト代表のフットボールの試合があるからだ。街頭やアフワと呼ばれるコーヒーショップの軒先にあるテレビにはそろそろ人が集まりだしている。
 夕涼みをしながら男達は水煙草やアラブコーヒーに興じていた。
 いつもオレ様が休憩するコーヒーハウスは決まっている。別にどこにでもあるようなかわり映えのしない店構え。通りに向かって開かれた店内にスズ板のテーブルと安っぽいプラスチックの椅子が置かれている。店の前に置かれたテレビが見える場所から埋まっていた。
「シーシャ(水煙草)とシャーイ(お茶)を。」
 アルミトレイ片手に近寄ってきたボーイにそう告げて一人でテーブルに腰掛ける。
 シーシャは硝子瓶に真鍮のフラスコを繋げたような道具の上に刻み葉を載せてアルミホイルをかぶせた上に炭を置き、瓶底に入った水をフィルター代わりにその燻した煙を長い管から吸うエジプトではポピュラーな煙草だ。この店ではそのフィルターになる水の中にオレンジの輪切りやミントを入れて、独自のフレバーを作り出している。もっともオレにはこれじゃ味が軽すぎる。観光客がよく吸っているリンゴのフレバーもよく吸うが、単にマリクの好みに過ぎない。あまりキツイ煙草を吸うと、この身体はすぐに喉を痛める。するといちいちウルセー保護者が出てくるから面倒くさくてしょうがねぇ。
 オレは砂糖が層を成す甘ったるいミントティーに口をつけて雑踏に耳を寄せる。物売りの声や子供達の歓喜に混じって、コーランを唱える声が聞こえてきた。
 こうしていると、ほんの少し前に自分が日本にいたことがまるで夢の中の出来事のように思えてくる。
 
 童実野町の夕暮れは宿主の下校時間だ。
 海が近い街だったからあの街中を歩いていれば、どこからともなく風に乗って潮の香りがしてきた。オレンジに染まる街、一人暮らしの宿主様は、マンションの近くにあるスーパーで夕食を買って帰る。あんまり自分でつくったりはしねぇヤツだったな。できあいの弁当や寿司折をよく買い物カゴに放り込んでいた。そうそう、体に悪そうな菓子やジュースの類も一緒に。そういやあそこの親は割と厳しかったから実家じゃ喰えねぇらしい原色の輸入菓子をよく買っていた。原色の赤や緑のキャンディや匂いのキツイガム。ラムネ菓子とパッケージに描かれるくせに、1粒しかラムネなんて入ってないフィギュアが一緒に入った箱。
 そんなものが一緒くたに入ったスーパーの白い手提げビニール袋。夕陽を背中にしょって歩くから、長い影は歩く路上の進む先に向かって長く伸びた。
 千年リングのなかで息を詰めるようにして、あの静寂と闘っていた。
 日本の夕暮れは好きじゃない。
 なんだか静かすぎて気が滅入る。そう言ったら、宿主様は皮肉のひとつでもいうのだろうか?どんなに囁いてみたところで、滅多にオレの声はアイツに届きはしなかった。
 
(なに辛気くさいツラ下げてるんだ、人の身体を勝手に使っておいて)
 
 まぁ、こんな風にいちいち突っかかってくることもなかったがな。
「ウルセェな。一服する間くらい黙ってろ」
 奇妙な独り言。それも雑音にかき消されて隣のテーブルまで届くことはない。
 
(・・・今日は姉さんが1週間ぶりに帰ってくるんだ。ボクは早く家に帰りたい。さっさと切り上げろ)
 
 このシスコンめ、と思った瞬間、今一番逢いたくないヤツが目の前を通った。
 
「マリク様」
 
 白のガラベーヤを身に纏った、厳ついガタイの禿頭。
 オレはコイツが苦手だ。(ウゼェから)慌てて首から吊したリングの中にスルリと身を隠す。
「リシド。なんだ、買い物か?」
 禿は両手にビニール袋や髪の包みを抱えていた。 マリクは立ち上がってテーブルにいくらかのチップを置いた。
「今日はイシズ様がお帰りなられますから」
 羊肉や空豆が入っているのだろう、重そうな包みのひとつをマリクは横から取り上げる。
「コレはボクが持つよ」
 一瞬、何か言おうとした禿は、躊躇った後で(ありがとうございます)と頭を下げた。
「今日の夕食はなに?」
 わざと子供じみた声でマリクがそう聞くと、禿は目を細めるみたいにして嬉しげに笑っていた。
「そうですね、羊を焼いたものに、レンズ豆のスープ、マハシー(お米の詰め物のスープ煮)とマリク様がお好きなタアミーヤ(空豆でつくった揚げパイ)です」
 歩調を合わせるようにして夕暮れの街を二人で並んで歩く、それはまるで親子のようにも兄弟のようにも見えた。
「タアミーヤは姉さんも好きだもの」
 クスクスとマリクが笑う。リシドは料理が上手いからね、と言いながら。
 
 こういう瞬間に、オレ様とアイツの関係は”家族”というのとは遠かったな、と思い知らされる。そのくらいありふれた家族愛を見せつけれられて思わず目をそらす。
 
 オレは一体どうしたかったんだろうな。
 
 こういう瞬間に、そんな考えが胸を過ぎる。あの潮風が吹く街でいったい了とどういう風に時を過ごしたかったんだろう?
 考えても仕方ないことだと分かり切っているのに、考えずにはいられない。
 もしも選択をひとつも間違わずにいれたなら、オレはまだあの街にいたのかもしれない・・・・・・そんなどうにもならない感傷が胸を過ぎる。
 
 きっと単純なことだ。夕暮れの路上に落ちる影。
 記憶の向こうにあるそれと違って、二人仲良く並んで足下から伸びた寄り添ったそれ。
 
 そこまで考えて自分の感傷に辟易としてオレはリングの底深くに自分の意識を沈めた。
 

            
カイロの街を黄金に染める、あの美しい夕焼けも見ないで。
 


the end

 

 >>カイロ観光案内風・・・。これ以外の祭りバクマリと同じ設定で。(つまりはパラレル)最後の一文は、吉野弘の『夕焼け』のパロディだなぁと自分で思いました(苦笑)。リシドはきっと歯茎がゆがみそうなくらい甘いケーキとかも焼いてくれるよ!エジプト男は本当に甘い物に目がないらしい(笑)。