石造りの霊廟に置いたベッドからゆっくりと起きあがった。まだ夜明けは遠い。石をくり抜かれただけの天窓から、月の光が差し込んでいた。
月の朔望 月齢14.6の満月の夜。
「バクラ?」
真っ白の大きな鷹が、その天窓のへりに留まってこちらをじっと見ていた。ボクは眠い目を擦りながら、首にした千年リングを白いガラベーヤの胸元から引っぱりだして頭上に掲げてやる。
バサッバサッと大きな羽音を闇の静寂に響かせながら、白い鷹が舞い降りてきた。
現実味がないくらいに真っ白な翼、その光の加減で赤く光る双眸。
舞い降りた鷹が千年リングを軽く蹴ると、パァッと眩しく光って床に人影が飛び降りる。
「オマエ、気づくのがおせぇんだよ」
踝まである漆黒のガラベーヤに、頭上から同じ色のクーフィーヤを被って肩に垂らしている。そのショールのような布の合間から、パラパラと零れる白い髪。
色素のない真っ赤な双眸がボクを見つめている。
アルビノの生き物は古来より神のみ使いと崇められてきた。なぜかこれまでさして気にならなかった彼の外見の特異さが、今更目について仕方がない。自分の背中から白い翼を広げて飛び立つ姿を見る度に、この盗賊風情が神々しいものに思えてならなかった。
「・・・朝まで帰らないだろうと思ってた」
水を、と思って立ち上がる。渇いた喉が気持ち悪い。
大学に入ってから、地理的に便利なこの場所に寝床を借りた。
死者の街、カラーファ。
それはカイロの東北方郊外ある無数の墓廟が集中的に立地した地区でモカッタムという丘の上に中世からの霊廟が無数に点在していた。何時の頃からか低所得者層を中心として、この墓地に住みつくようになり今では”死者の街”と呼ばれながらも、墓地内に住み着いた百五十万人の住民を飲み込む街に姿を変えた。潔癖を好む姉さんはこの場所を忌み嫌っていたが、ボクはまんざら捨てたもんじゃない場所だと思っていた。
自由な明るい光の世界に恋焦がれるようにして生きた十代だったというのに、心落ち着く場所がこんな誰のものともしれない霊廟だというのは笑い話にもならない。
ただボクのなかを駆けめぐる血が。
時に狂おしくたぎる血脈が。
自分でどうすることも出来ないそのたぎりが、ここにいると沈められる。そしてボクはボク以外の何人に振りまわわされることなく、”マリク・イシュタール”としての自分自身を深く感じることが出来るんだ。
「前から訊きたかったんだけど」
冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を一気に飲み干して、人のベッドに勝手に横になっている悪霊に向かって話し掛ける。
「何だよ?答えんのが、めんどくせぇよーなことは訊くなよ」
彼は寝る前にボクが読んでいたバイク雑誌をパラパラと捲りながら、なにが面白いかわからないという顔をしていた。
「キミはアルビノなのか?」
アルビノ。先天性白皮症とも呼ばれる。世界中に存在し、この地球上の生物の全てに存在すると言われる遺伝子代謝異常性疾患。
「なんだぁそりゃ?」
本当にわからないという顔をしてボクを見上げた。
その赤い目。頬に影が落ちる長い睫毛の色さえ白い。
ボクはなんだか可笑しくなってしまった。
彼は自分の姿形など、まるで気にしていないのだということを思いだす。気にしていない、というよりは感心がない。
そのくせまるで合わせ鏡のようにうり二つの姿をした人間を溺愛している。
不意に夜中に目を覚ました時に、彼が壁に掛けた姿見に映る自分の姿をジッと見つめているのに出くわしたことが何度もあった。そんな女々しい行為にわざわざ気づいてやるほどボクは親切な人間ではない。
そんな遠い目をして鏡と向かいあうくせに、なにひとつ伝えることが出来なかった臆病者。
「わからないならいいよ」
そう返せば返したで不満そうに何かぼやいているけど、そんなのは相手にしない。
「そういえば今日の講義で、オマエに似てるものが出てきたんだ」
必修の外国語の授業でつかったテキストを捜す。
イギリスの寓話の下に描かれた妖精。
「ほら、よく似てないか?」
その姿はまさにアルビノのカエル。だが手足はなく、あるのは2枚の分厚いコウモリの羽根ようなヒレと、長く錘のように先の尖った尻尾。
「西洋の妖精さ。サムヒギン・ア・ドゥール(The
Llamhigyn Y Dwr)と呼ばれていてね。沼をはね回り、引き上げようとすれば血も氷る鼓膜も破れんばかりの奇声を発するらしい。その声に驚いて水に落ちれば喰い殺されると言い伝えられてるんだ」
差し出したテキストをじっと見て、不愉快を絵に描いた顔でボクの顔を見上げてくる。
「 殺されてぇのか、オマエ」
げんなりとした彼の答えに、ボクは満足する。
「誰に向かってそんな口をきいてる?」
冷笑して、手にしていた千年リングをパシャン、と石床に叩きつけた。
ボクの手からリングが零れた瞬間、自由が利かなくなった彼はベットの上から姿を消す。
「おやすみ(笑)」
嫉妬のひとつも組み取れないような鈍感な男にはそんな扱いがお似合いだ。そう思いながら毛布にくるまって目を閉じたのに、冴え冴えとしてまるで眠気が襲ってこない。
仕方なしに半身を起こしてため息をつく。
月が。
ちょうど天窓の正面に姿を現して、一層明るい光を霊廟に注ぎ込んでいた。
床に転がった千年リング。
月光に神々しく輝くそれは、その光で記憶を辿るような淡いひとがたを紡ぎ出す。強すぎる記憶が放つ残像。それはまるで祈りにも似ている。
ボクの顔を見て寂しげに笑うのは、透けるように白い髪、赤い瞳の 何一つあの盗賊と違いはしないにくせに、けっしてアイツではないその姿。
それが目に入った瞬間、とてつもない哀しみがこみ上げてきことを、そのリングの中身に気づかれないように慌てて頭から毛布を被った。
決して気づかれてはならない、この報われない想いを押し殺すために。