金木犀と愛犬と僕とあいつと。

 甘い香りで目が覚めた。
 
 薄く目を開けると、ぼやけた視界の隅にオレンジ色の何かがちらつく。べったりと枕に後頭部をつけたまま、まるで起きる気分じゃない僕は、ただゆっくりとそのオレンジ色にピントをあわせる。
 
 ベットスタンドが置いてるサイドテーブルに昨日の夜飲んだ珈琲牛乳のガラス瓶。水がなみなみと入ったそこには手折られた金木犀がひと枝飾られていた。
 
 たった握りの小さな花が、なんて強く香るんだろう。
 
 ”あいつ”は強く薫る花が好きだ。
 今までに何度もこんなことがあった。春先には木蓮、沈丁花、そして山梔子、水仙、そして今朝の金木犀。
 意識が随分ハッキリしてきた頃、もう一度眠ろうと寝返りをうった瞬間、右手の甲にビリビリとした痛みを感じて飛び起きた。
「・・・ッ」
 思わず顔をしかめる。
 真っ白な包帯が綺麗に巻かれていた。
 
      勿論僕は欠片ほどの憶えもない。
 
 クゥン。
 
 ベッドの足下で、甘い鳴き声がして目をやると、実家にいるはずの飼い犬が大人しく座り込んで僕を見上げていた。白いフワフワのスタンダード・プードルの天音。僕よりたったひとつ年下の老犬。
「・・・天音?」
 そう呼ぶと、パタパタと尻尾を振りながら枕元に近寄ってきた。キューンと鳴きがら右手に巻かれた包帯に鼻をひくつかせる。
 
 この右手の痛みには、なんとなく憶えがあった。
 
 丁寧に巻かれた包帯を、ゆっくりと解いていくと、手の甲にはクッキリと天音の歯形がついていた。飼い犬に手を噛まれるなんて何年ぶりだろう。
「・・・天音が噛んだの?」
 そういって顔を舐めようとベットに身を乗り出してくる大型犬の背中を撫でると、反省を訴えるみたいな甘い声で鳴いた。
「ごめんね。怒ってる訳じゃないよ。あいつが天音を驚かせたのかな?」
 そう口にしながら、ああ、天音には僕とアイツの見分けがつくのだ、と驚いた。ペロペロと頬を舐める天音に、首から提げた千年リングがカチカチと震えて揺れた。
 
その瞬間。
 
「天音?!」
 まるで盗賊のような身のこなしで、僕の首から千年リングを銜えて外した天音がそのまま部屋を飛び出した。
「天音!」
 慌てて立ち上がろうとすると、バランスを崩して床の上に転倒した。
 
* * *
 
(ごめんね、了ちゃん。10日間だけだから天音のことお願いね)
 
 そう言って、母さんが”天音”をこのマンションに置いていったのはちょうど3日前だ。
 エジプトに長期のフィールドワークに出ている父の元に行くために、母が10日ほど家を空けることになった。スタンダード・プードルが世話の大変な犬だということと、前回ペットホテルに預けたときに重度のホームシックにかかったのが原因で、置いてけぼりを食らった”犬”の天音は僕が面倒を見ることになった。
 
 天音は初めはポピーという名前の犬だった。
 獏良家の末っ子が生まれたのと時を同じくして貰われてきたカワイイ子犬。
 ところがこの子犬、どんなに名前を呼んでもまるで返事を返さない。いや、返すことは返すのだけど、自分につけられた”ポピー”という名前に返事をしない。
 
「天音!」
 僕はリングを銜えたまま逃げだした天音を追いかけて、パジャマ姿のまま1階まで階段を駆け下りた。随分涼しくなった朝の空気に、さっきまで枕元で薫っていたのと同じ甘い金木犀の匂いが一層色濃く辺り一面に薫っている。
 
 僕は金木犀にほころぶオレンジ色の花混じりの茂みに向かってそう叫んだ。
 
 そう。天音というのはホントはウチの末っ子の名前。
 小さな”ポピー”は生まれたばかりの赤ちゃんにつけられた名前がいたくお気に召したらしく、天音の名が呼ばれる度に尻尾を振りながらワンッと鳴いた。あの当時、うちじゅうで一番愛されていたものに付けられた名前。自分の名前より家族のみんなが数段甘く口にするその名前は自分の物だと訴えるように、子犬は必死で鳴き続けた。
 一番初めに根負けしたのが僕だった、と言われ続けて大きくなった。自分を呼んでいる名ではないのに、あんまり必死に返事するのが可哀想で、子犬を抱きしめて「あまね。あまね」と呼んだのだと。
 ・・・あんまり小さいときのことだから、憶えてるはずもないんだけど、家族や親戚が集まる席で繰り返し話題に上るエピソードは、まるで刷り込みのように僕の記憶の棚に収まっていた。
 本物の”天音”は未だにそれを根に持っているらしく、なにかというと(兄さんが本当にかわいいのは、昔から犬の天音の方だよね)とよく拗ねたものだった。母さんがいない間、最初は天音が”天音”の世話をすることになっていたのが、昔から仲が悪い両者に歩み寄る気配はなく、諦めた母が僕に泣きついてきたのだった。
 
 まぁそんなことがあったせいか、確かに大きくなってからも天音が一番懐いていたのが僕だった。”あいつ”のせいで学校にも家にも居場所がなかった時期、僕はよく天音を連れて家の近くの河川敷を散歩した。リードをつけなくても大はしゃぎしてどこかに行くような性格の犬ではなかったけど、大型犬を怖がる人も多いから、散歩の時は必ずリードをつけた。
 
 ぐるぐるとそんな昔話が頭を廻る。
 
 そう。天音は賢い犬だ。
 前に僕に噛みついたのは、出産の後、混乱していた時で僕もまだ小学生だった。未だに憶えてるくらい痛かったけど、僕は泣かなかった。
 噛みついた天音があんまり哀しそうに鳴き出したから、泣くタイミングを失ったんだ。
 
 悪戯好きで僕を困らせてばかりいた天音。
 
 歳をとったせいか、最近は随分大人しくなっていたから、こんなに手を焼くのは久し振りだ。天音の特技は一人でドアノブを廻してドアを開けてしまうことだったから、さっきも僕が床で転んでる間に外に逃げられた。僕は昨日家に帰った時にちゃんと鍵を掛けたはずだから、掛け忘れたとしたら僕じゃないもう一人の”あいつ”に違いなかった。
 
 多分、天音は僕の中身が僕じゃないことに気がついて、それでこんな風に噛みついたんだろう。マンションの下に金木犀を手折りに行った後、部屋にはいるなり天音に噛まれたといったところかな?そういえばまだピリピリしていた右手の甲を、左手でそっとさする。
 
(天音には本当に手をやかされたな・・・)
 
 そう思いながら、何かに印象がダブることに気がついた。
 何か、じゃない。本当はちゃんとわかってる。
 
      天音は少し、”あいつ”と似てるんだ。
  
* * *
 
 クゥン。
 
 背中越しに、聞き覚えのある鳴き声がして僕はハッと振りかえる。
「・・・天音!」
 まるでビクターの犬みたいに首を傾げて不安そうな顔をした天音が、マンションの中庭で一番大きな金木犀の木の下でジッと僕の方を見ていた。
「どうしたの?怒ってないからこっちにおいで」
 そう言いながら、僕は屈んで天音と目線の高さを合わせる。天音はちょっとだけ躊躇うようにして、それでもゆっくりと近づいていた。
 
「”それ”を返して貰えるかな?僕の大切な物なんだ」
 
 天音が銜えた金色の千年リングを指さして優しくそう言った。
 カチカチと震えているのは、天音がリングを噛んでるからじゃないことが僕にはわかった。オバケのQ太郎の昔から、オバケは犬が嫌いと相場が決まっているのだろう(笑)。
 
      今、僕は何て言った?
 
(”それ”を返して貰えるかな?僕の大切な物なんだ)
 確かにそう口にした、ああ、そうだ。あの時も探し回ったことを思い出す。バトルシティで最後に僕が目覚めた瞬間。瓦礫の中で目覚めた時、まず首に掛かっている筈の千年リングを左手で捜していた。
 
 本当は認めたくない。認めたくなんかないけれど。
 
「天音      
 
 ソロソロと金木犀の花の下から、天音が屈み込んだ僕のそばに近寄ってくる。
 そして目の前までやってくると、差し出したままだった僕の掌に、そっと千年リングを置いて離した。
 
 クゥン。
 
 本当は不本意だといいたげな声で鳴く。その白い毛並みを撫でるように僕は天音を抱き寄せる。
 
 思わず握りしめたリングがまるで夏の陽に焼けたみたいに熱かった理由に気づかない振りをして。
 
      僕はあまりの照れくささに、天音のフワフワした長い毛に、赤くなった顔を埋めてた。
 

 そう、まるで”見ているよ”と。
 
”しらばっくれてもダメだよ”と。

 輪唱するような金木犀の濃い甘い匂いから身を隠すように。 


the end

>> サイトのキリ番だった12345を踏んで下さった水川和美様からのリクエストで、『獏良さんと妹・天音さん(犬でもヒトでもその他でも可)とバクラさん』でした!・・・つか性格には盗賊が出てないですね・・・えへ。こんなんでいいのか?許されるのか?と思いながら書きました・・・。身内から以外のキリリクって初めてだったので超不安です。ちょっとでも水川さんに楽しんで貰えたらいいんですが。とりあえず本物の天音の正体がわかるまでに仕上げたかった話です(笑)。そして遊びに来てくれてる皆様、12345hit!ありがとうございました!!