二日ぶりに帰った我が家は、さぞや荒れてるんだろうと思いきや、予想に反してオレが出ていく前より随分と片づいていた。オヤジはどこにもいなかったけど、この片づきようからみておそらく仕事に行ったんだろう。オレはとりあえず冷蔵庫を開いて晩飯の材料が何かあるかどうかを確かめた。まだ賞味期限に余裕があるボンレスハムと卵、使いかけのキャベツと大根、冷凍の塩鮭。そんなもんか。米びつの米はまだ余裕があったはずだし、晩飯と明日の朝飯の材料はなんとか確保できそうだった。
・・・うちの親父は、昔から荒れてオレを殴った後に、辛うじて残ってる良心からなのか、しばらくするといきなり改心したみたいに泣き出すんだ。「すまねぇ克也、すまねぇなぁ・・・」って、大の大人がワンワンと泣きわめく。そんで何日かは日雇いの仕事に出かけてるものの、結局体調を崩して現場をクビになる、そんで自棄になって酒を飲んではオレに当たる、そういったのの繰り返しだ。まるで抜け出せない悪夢みたいに。
実際、オヤジがこんなになっちまってからも、お袋は五年以上耐えるように一緒に暮らしていた。ここ最近は静香のことで頻繁に連絡を取るようになったけど、お袋がオレをオヤジのところに残して出ていってからしばらくの間、まったく音信不通だったと言っていい。でも後から聞いた話だと、あの時お袋がオレを置いていったと言うよりは、オヤジが子供を手放そうとしなかったのが本当らしい。「お前に子供は渡さねぇ!」と暴れるオヤジ相手にお袋は、目を煩っているこの子だけは、と粘って、なんとか静香一人を連れてこの家を出ていった。
そうえいばこの前静香の病院に行ったとき、久し振りにお袋と二人きりで話をした。
夕暮れの給湯室。静香が使ってる私物のコップやフォークを丁寧に洗いながら、(お父さんはどうしてる?)と、オレに向かってオヤジのことを初めて口にした。
「・・・別に。相変わらずだぜ。暴れて、泣いて、改心しちゃあ自分に負けての繰り返し。お袋がいた頃となんの進歩もねぇよ」
そう言うと、目に大粒の涙を浮かべながら、(ごめんね、克也。ごめんね)と、お袋が喉を震わせる。
オレは、気にするなよとも、ゆるさねぇよとも言えなくて、そのままその場で黙り込んでしまった。
そこでお袋をいたわれるくらいに、オレも大人になれればいいのに。
「別にいいよ、もう。泣くなよ、お袋」
そう言うのが精一杯で。自分の子供さに泣きそうになったんだ。
***
「あのぉー・・・オレ、海馬と連絡が取りたいんですけど・・・」
今日で三日目になる海馬がいるホテルのフロントマンに、おどおどしながらオレはそう話しかける。
晩飯を作って親父を待っていたものの、いつまでたっても戻ってこないから、オレは自分の分を掻き込むように食い終えて、モクバとの約束を果たすためにこの場所に来ていた。
昨日一昨日より、時間が遅いせいか、海馬はもう部屋に帰っている様子で、仕方なくフロントに申し出ることにしたんだ。
「海馬様でございますね」
ベージュのスーツに臙脂のネクタイ。よくみればそれは、昨日オレの鍵を救出してくれた人だったわけで。
「・・・あ、昨日はありがとうございました!」
慌ててオレがぺこりと頭を下げると、「とんでもございません。お役に立ててなによりです」と逆に頭を下げられた。
「お待ちくださいませ。電話をお繋ぎいたします」
そう言ってフロントの白い電話を海馬の部屋に繋いでくれる。
「どうぞ」
完璧な笑顔と一緒に、オレはワイヤレスの受話器を手渡された。
何となく照れくさくてフロントに背を向けると、ロビーの中央にある、オブジェみたいなデカさの花瓶に生けられた、鬱蒼とした極彩色の樹木のように色とりどりの花々が目に入る。オレはぼんやりとそのなかの一番綺麗な白い花を見ながら、受話器から流れてくる呼び出し音に耳を寄せていた。
『もしもし?』
訝しげな声が耳元に響く。
わわっ。
「・・・もしもし、オレ。城之内。」
なんて言えばいいのか分からなくてそう言った。
『・・・なんだ、また貴様か。今度はいったい何を忘れた?』
嫌みったらしい言い方が海馬節だな、と苦笑いが浮かぶ。
「今日は忘れ物じゃねーよ。モクバから、預かったものを渡しに来たんだ」
そういうと、ちょっと会話に間が入った。
『・・・モクバが・・・貴様にか?』
訝しげな声で海馬がそう呟く。
「そうだよ。上がっていいか?」
ずけずけとそう聞いた。なんかやっぱりこういうシチュエイションは苦手だ。なんかスゲー場違いな気分になっちまう。
『仕方あるまい』
海馬がそう言うのを聞いて、オレは電話を切ると、どうも、と言って受話器をフロントに返す。
「海馬様のお部屋は二十八階の一番奥でございますので」
その言葉に(もう憶えてしまいました)とも言えず、うやうやしく頭を下げられて、オレは何度もペコペコしながらエレベーターホールに向かって歩いた。
***
「・・・で。貴様はいったい、モクバから何を預かってきたんだ?」
まだ仕事中なのかスーツ姿の海馬が、ドアを開けるなり鋭い声でそう聞いてきた。
オレが深読みしすぎてるんだろうか・・・。なんかコイツ、無茶苦茶不機嫌そうなんですけど・・・。
「はいコレ。中身は開けてねぇからしらねぇけど」
ちょっと厚みのある茶封筒をバサッと海馬に手渡す。
「じゃあオレは帰るから」
触らぬ神に祟りなし。くわばらくわばらと思いながら海馬に背を向けて帰ろうとすると、後ろからいきなり腕を掴まれた。
「・・・まぁ待て。少し上がっていけ、珈琲くらいは入れてやる」
怖ぇぇ〜!
オレはその申し出をありがたーく辞退したかったが、まるでそんなオレの言い分なんて、コイツは聞く耳もたなさげだった。
***
俺は借りてきた猫のようにダイニングの奥の窓際にある、でっかい青いソファーに座らされて、海馬がキッチンから出てくるのをぼんやり待たされていた。靴下を履いていても、足の裏に触れる真っ白なファーの感触が気持ちいい。
「ほら、飲め」
デミダスカップを両手に戻ってきた海馬が、同じソファーの反対側に腰掛けて、トン、とオレの前にそのカップの片方を置く。
「どうも・・・」
なんか怖くて顔が上げれないんですけど・・・。
それでもチラッと前を向くと、海馬は甘党なのか、小さなカップに卓上の角砂糖を2つほど放りこんで華奢な銀色のマドラーをクルクルと回していた。
つまんなさそうな顔をして、カップの表面を覆った細かい泡を見てるみたいだった。
この苦い珈琲はオレは苦手なんだけど、そんなことを言える雰囲気でなく、どうしようかなーと、ちょっとオレは目を泳がせた。
「・・・城之内」
海馬の声に顔を上げると、ヤツはオレがモクバから預かってきた封筒を開いたところで・・・その中身は、十数枚はありそうな「通信簿」の束だった。
「これはどういう意味だ・・・」
全ての表書きには、学年とクラス、それに「海馬モクバ」という名前が書かれている。「どういうって・・・通信簿だろ?」
そのひとつをつまみ上げてぱらりと広げる。
「・・・スゲェな、これ。全部5ばっかりじゃねーか」
おそらく小学一年生の時から一番新しいのまで。
海馬が机の上に広げたのを、端から捲っていったけど、どれもコレも5が並んでいる。担任の評価欄もビックリするくらい賞賛しか書いてない。
「うっわ。オレもいっぺんでいいからこんな通信簿貰ってみてぇ〜!」
どうせオレの通信簿なんて、アヒル(数字の2がアヒルに似てるから)ばっかりだったっつーの!羨ましいったらありゃしない。
オレが素直に感想を述べていると、海馬は急に黙り込んでしまった。
「海馬?」
俯いたまま、顔を上げない。
「・・・モクバは」
沈んだ声で、言葉を綴る。
「オレに対してずっと怒っていたんだろうか」
今にも泣きそうな顔をしているくせに、それに気づいてないような。
そういう顔でオレの顔を見るから、一瞬、言葉を失ってしまう。
「え?なんで??」
海馬は机の上に広げた通信簿を、一枚一枚広げて重ねていく。
「オレはモクバの成績になんて、今まで一度も興味を持たなかった。こんな評価も初めて目にした。」
淡々とそう口にする海馬の、指先だけが微かに震えている。
「もしオレに見せたいがために、こんな風にモクバが努力していたのだとしたら、俺がしらずに見逃し続けてきたことは、モクバにとって許せないことなんじゃないのか?」
自分の小さな弟を、傷つけていたんじゃないかと苦悩する海馬がなんだかいじらしくて。
「そうかな。オレ、違うと思うぜ」
さっき海馬の家の前で別れたときの、モクバの屈託のない笑顔を思い出す。
「それをオレに持ってけって言った時、オマエの弟は笑ってたんだ。」
そういうと、海馬はジッとオレの顔を凝視した。
「・・・やっとそれ、見せれるって思ったんじゃねぇの?今のオマエなら、頑張ってき続けた自分のこと、誉めてもらえるんじゃないか、って」
多分そうじゃないかな、と思う。そしてもう一つ、意味があるとするなら
「このモクバの通信簿の山は、きっと、オマエにいつまでもここにいて一人で仕事してないで、自分が待ってる家に帰ってきてほしいっていうメッセージだ」
ハーッと、海馬は深いため息をついて俯いた。
「いいなぁ、いいじゃん。いい弟じゃん、海馬(笑)」
多分、モクバはオレなら海馬にそういってくれると思ったんだと思う。だからこの通信簿の束を預けたんだろう。仕事で忙しい兄貴に、自分が「寂しいから帰ってきて」なんて我が儘は言えないから、オレに伝えて貰おうとした。そんなとこだ。
「兄弟っていうのはさぁ。解けない呪いみたいなもんなんだから大事にしろよ」
そう言って海馬の背中をポンと叩く。
「・・・わかったような顔をして呪いなんて言葉を易々口にするんじゃない」
くぐもった声。怒ってるのか、呆れてるのか、イマイチ判断がつかないような。
「なんで?わかってるよ」
ムキになるワケじゃないけど、真っ向から否定するみたいな海馬の口調にカチンと来る。
「貴様は何もわかってない」
そんな苦しい顔してオマエ、そんなセリフを口にするな。
「・・・オレにも妹がいるからわかるっていってんの!兄妹っていうのはさぁ、どんなにイヤがっても一生兄妹なんだからさ。解けない呪いと一緒でずっと、モクバは兄貴のお前に手をさしのべるんだろうから、大事にしてやれって言ってんだよ」
海馬がゆっくりと顔を上げて横に座ってるオレの方に顔を向ける。
「・・・お節介だな、城之内」
なんだか疲れた表情をしていても、現実味のない海馬の青い目はやっぱりスゲェ綺麗で。
「・・・お前の妹とやらは今どうしてる?確かどこか身体が悪いんだろう?」
思いだしたみたいにそう聞かれて、どう答えようかと考えた。あの王国でコイツにぼろくそにやられた時、静香のことをコイツに話そうとした獏良を制止した自分を思い出す。
「今は病院で手術待ちだよ。生まれつき、目が悪くてさ。でもきっともうじき見えるようになる。」
大丈夫、きっと上手くいく。オレやお袋がまずそう信じないと、上手くいくものも上手くいかないに決まってるんだ。
「・・・オレは両親を亡くしてから、ずっとモクバと二人きりだ。ずっと二人で生きてきた」
まるで独り言みたいに呟く声に、返事はせずに頷いた。
「不幸だとは思ってない。少なくとも1人で残された訳じゃない。死んだ両親にそのことは心から感謝してる」
そう言って、海馬はギュッと目を閉じた。
「・・・なんでオレに、そんな大事こと話してくれるの?」
綺麗な目なのに、いつだってオマエの焦茶の前髪が重すぎて表情が読みとれない。
「・・・だから今、貴様が妹の様態が気がかりで辛い気持ちも察せなくはない。・・・それだけだ」
海馬は。
オレの言葉にちょっと困ったような顔をした風に見えた。顔を曇らせる、というのはきっと、こんなカンジなんだろう。
( お兄ちゃんはさぁ・・・)
静香の声を想い出す。落ち着いた口調のせいで幾分低く聞こえる妹の声。
(いつだって心配しすぎなんだよ。私のこともお母さんのことも・・・お父さんのことも)
どっちが年上なのか判らなくなることがある。すげーかわいくて、オマケに頭がよくて、そんで気持ちの優しい、オレの自慢の妹。
「なんか修学旅行の夜みてぇ(笑)」
・・・なんか昨日から、本当そんなカンジだ。オレはなんだか急にテンションが高くてなってきて、グッタリしている海馬の頭を、昼間にモクバにしたみたいに撫でた。
「・・・・なんだそれは」
怒ってオレの手をはねのけるかと思ったのに、海馬は俯いてされるがままで。
「だから修学旅行ってさ、なんかこんなカンジなんだよ。こんな風にさ、教室や部室じゃ出来ないような告白大会になるんだ。まぁ大体最後は、女の話とかになるんだけど・・・」
別に修学旅行だけってワケでもないけど、普段の日常から切りとったみたいに過ごす夜っていうのは特別の空気を含んでて、いつもなら言えないようなことだって、まるでとりつかれたみたいに話し続けたりすることが出来るンだと思う。
海馬は修学旅行という単語自体がピンと来ないといった風だったんで、泊まりがけで行く遠足みたいなもんだ、と付け足した。
「・・・貴様はなんでもかんでも全部大切なんだな」
伏せ目気味にそういった海馬は、なんだか口の嘴で笑ってるみたいに見えた。まるで自分自身に向けるみたいな冷たい笑み。
まるで話が繋がらないことを海馬は言ってるんじゃなくて、もっと本質的な、オレの性格について海馬は非難してるんだとすぐに分かる。
「それって皮肉かよ?」
多分、自分の視界に入ることのうち、オレが何とか出来ることなら、どうにかしたいって思うこの性格に、海馬は苛ついてるんだと思う。
・・・・さすがにこうこられると、オレも何か言い返すべきだと思ったけど。
「むしろ敬意を払いそうだぞ。どうすればそうやって、自分に向けられる好意の全てに真摯になれる?」
首を少し傾げるようにして、海馬がそう続けた。
「海馬にはオレはそんな風に見えんだ」
そんな風に言うつもりじゃなかったのに。
「・・・じゃあ今ここにあるオレの願う気持ちは全部オマエに向けてやる。なんでも言えばいいじゃん、ブツけてみろよ、聞いてやるから」
そう言って、オレはシャツごしに海馬の心臓の上を、トンと自分の手の甲で叩いた。
本当は無茶苦茶照れくさかったから、オレは出来るだけ冗談ぽく言ったつもりだったのに。
なんでそこでオマエが泣きそうな顔すんの?
「・・・ゴメン。」
急に毒を抜かれたみたいになったオレは、ついそう謝った。
「別に謝る必要はないだろう・・・」
海馬の言ってることは間違ってなくて、なんでそんな言葉ひとつで悲鳴を上げるみたいな顔をされるのかわからなくて、でもオレの胸まで痛くなって。
「なんかあった?モクバのことか?」
そう聞いたら、海馬は困ったみたいな顔をして、それからゆっくり首を横に振った。
「・・・くだらない。ばからしい。わからなくていい。」
呆れそうなくらい構って欲しそうな表情をしてるのに、そんなつれないことを言う。
「じゃあもう聞かねぇし。」
ポン、と海馬の前髪を軽く小突くと、その俺の手を振り払うみたいにしてそっぽを向いてしまう。後ろからでも見える耳が真っ赤になっていた。
それに気づいた瞬間に、なんだかこっちまでバツが悪くて、そっぽを向いて膝を抱えるみたいにソファーに座った海馬の、背中合わせになるように自分もソファーの上に足を上げて三角に座ってみた。
いつだって、海馬は走り続けているんだと思っていた。
自分でもそう言ってるくらいだから、よほどそんなヤツなんだろうなぁと思ってたんだ。勝つために走り続け、それを自分自身の存在意義にしてるんだと。
でも本当は多分違う。コイツは、走り続けてるんじゃなくて、「止まる」ことをインプットされてないんだ。知らないことができるわけない。だから走り続けているように見える・・・止まれないだけなのにな。
そう思ったら、いつだって王様みたいに振る舞っているコイツの態度も何もかもが、こんなに子供っぽく思えてくるんだ。本当の姿は、弟に返す言葉ひとつに悩んで黙り込んでしまうような不器用さで。
やばいなぁ、と思った。
気づかなくていいことに気づいてしまったような気がした。
でも気づいてしまったからにはもう、オレはどうにも目が離せなくなるんだ、きっと。
あわせた背中が暖かくなってきて、何か話さなきゃと思っていたのもどうでもよくなってくる。海馬は他人から甘い言葉なんて欲しがらない。コイツは自分の目に映るモノだけが真実だ。
だからこうやって怒られないように側でこうしてることくらいしか今は出来ない。離れろとか暑苦しいとか言ってこないから、とりあえずそのまま背中をあわせてジッとしていることにした。
飲み込んだ言葉は口にできない。
ただ。肩越しに、こいつがもう少し、幸せになれるといいなと思った。そう願わずには、いられなかった。
the end
2002.1.29 TEXT BY MAERI.KAWATOH
・・・・all standard is
you.