風物詩【前編】
 
 夕刊の配達を終えた後、家に帰ろうと少しだけ肌寒くなった公園の遊歩道を歩いてた。公園口の広場に今年初めてのたい焼きの屋台が出てたから、焦げる餡のいい匂いにつられてなんとなくそれを3つ買って包んで貰う。
「兄ちゃん、幾つにする?」
 そう聞かれて、すらっと「じゃあ3つ」と口にしていた。
 手にした茶封筒の暖かさが心地いいのは、つい半袖で家を出てきたせいだけじゃないんだろう。涼しいと言うには冷たすぎる風から逃げ出すみたいに足早に、オレはあの緑深い屋敷を目指して歩き出した。
 
* * *
 
 一週間ぶりに海馬邸に辿り着いたものの、モクバも海馬もいなかった。
「モクバ様は裏庭に出て行かれたきりなんですよ」
 顔見知りのメイドさんにそう言われて、じゃあ自分で捜します、と自分のカバンと鯛焼きの包みを彼女に預けて屋敷の裏手の森に入っていった。
 門を抜けたあたりから甘い金木犀の匂いがしてたけど、踏み入った森の奥に進めば進むほど、その匂いはどんどんオレに近づいてきた。まるで霧のように辺りに立ちこめるみたいに強く香る。その甘い匂いにはなんだか幸福な記憶がまとわりついてるような気がした。花の香りで幸せな気持ちになれるなんて、それほどオレはロマンチストでもねぇんだけど。
「モクバー。」
 もう随分陽も傾いた。いったいどこにいるんだろ。
 森の中に植えられているのは殆どが椎や樫の木だった。ガサガサと落ち葉を踏んだ感触に違和感を感じで地面をよく見ると、大粒のドングリが幾つも落ちていた。
「なつかしーな、これって昔はよく拾って遊んだっけなぁ」
 思わず独り言みたいにそう呟きながら、柔らかい腐葉土の上に散らばったドングリを拾い集めて、あとでモクバに見せようと思ってそのままジーンズの後ろのポケットに詰め込んだ。
 ひとしきり拾ってポケットがぱんぱんになると、またモクバの名前を呼びながら歩き出す。庭にしては広すぎるこの場所を暗くなる前に後にしたいというのが本音だった。
「城之内?」
 甘い匂いに、まったく異質の匂いが混じる。それが強くなる方向からモクバの声がしたから、オレは深く茂った金木犀の枝をかき分けた。
「…こんなとこで、なにしてんの?」
 金木犀の茂みを抜けると、大きなイチョウの木が集まっていて。モクバはプラスチックのバケツを片手にしゃがみ込んで何かを拾っていた。
「銀杏だよ」
 なんだ。異臭の原因はコレか、と思いながら空を見上げると、大きな木の枝には黄色く色づいた丸い銀杏の実が鈴なるように実っている。
「こんなん拾ってどーすんの?」
 顔を顰めてそう聞くと、モクバが顔を上げてこっちを見た。
「?…食べるにきまってるじゃん」
 なにあたりまえのこと聞いてんの?というその表情は、小憎たらしいくらいに海馬によく似てる。顔の作りというよりも、目の細め方とか口の尖らせ方とか、そういった表情の作り方が。
「オレ、銀杏って食べたことねーよ」
 まだあまり実が落ちてきてないんだろう。チラリと覗いたバケツの中の収穫はちょっと寂しい。
「手伝ったらオレにも御馳走してくれる?モクバ」
 そう言うより先に、イチョウの枝に手をかけた。この高さくらいになら、上に登っても平気だろう。
「イイカッコして、落ちるなよ〜城之内!」
 いちばん低い節に足を掛けて登ると、さらにもう一つ上の枝に足を掛ける。
「ほらー拾えよー!」
 地面にしゃがみ込んだままこっちを見上げるモクバの周りに、枝を揺すってバラバラと銀杏の実を落とす。スゲー!というモクバの声が嬉しくて、オレはもうひとつ上まで登って枝を揺すった。
 フイに枝の先を見ると、どうやら随分な高さまで調子に乗って上がってしまったらしく、この屋敷が建つ坂をうんと下った先の海までが見渡せて驚いた。真っ直ぐ伸びた坂道の先に沈みかけた夕陽で赤く染まった水平線が揺らいでいる。
 この季節独特の、奇妙なくらいに雄大な夕焼けがこの街の空も海も焦がしている。ついこの間までは真夏のようだったのに、いつの間にこんなにも秋は深まったんだろう。
 思わずその夕焼けに見とれていると、下からモクバが呼ぶ声がして我に返った。
 
* * *
 
「本当に城之内は肝心なトコでダサイよなぁ」
 
 モクバにそう呆れられながら、オレはよたつきつつも散らばった銀杏の実を拾い集めた。イチョウの木から下りる途中に、これで最後という枝を踏み折って地面に転がり落ちたのだ。たいした高さじゃなかったが、受け身で打った背中はズキズキしたし、Tシャツには銀杏の腐った実がベッタリ付いて最悪なカンジだった。
「なんだよーそのおかげでバケツもいっぱいになったじゃんか」
 オレは目についた実を拾ってバケツに入れようとする…と、またモクバに叱られる。
「そのまま入れるなよな!」
 そういわれてよく見れば、モクバのバケツの中には、綺麗に果肉を外した大豆程度の大きさをした銀杏の種だけが入れられていた。
「え?この果肉を食うんじゃねぇの?」
 オレがそう言うと、モクバは「こんな臭いの食べないよ、だから種だけ入れてよね」と先公みたいな口調でかわいくないことを言う。
オレが集めた銀杏を、ビニール手袋をはめたモクバが器用に果肉と種に分けていった。
 どのくらいそうしていたのか、バケツがちょうどいっぱいになった頃、すっかり陽も暮れて暗くなったから、あとちょっと!とぐずるモクバを抱えるみたいにしたまま屋敷に連れ戻ることにする。
「おろせ!子供扱いすんなよなー!」
 そしたらオレの背中を叩きながらバタバタあんまり暴れるから、仕方なくモクバを地面の上に降ろして、代わりに銀杏の種でいっぱいになったバケツを持ち上げた。
「ああ、そういえば」
 落ちた時にケツの辺がゴツゴツしたなぁとポケットに手をやって、さっき拾ったドングリのことを思い出した。
「これやるよ、モクバ」
 子供の頃、そんな風にどんぐりをやると静香が喜んだのとかが、幸せな記憶だけ入ってるフォルダに入ってて、それを思い出しながらそんなことをしてる自分に気がついた。
「どんぐり?」
 どうしてそれをオレが自分の掌に載せるのか、まるでわからないという顔をしたモクバなのに、ふいに何かを思い出したような顔をして顔を歪める。
 
「それはリスさんのご飯だから持って帰って来ちゃだめなんだぜぃ」
 
 モクバが真顔でそんなことをいうから、オレは思わず笑ってしまう。
「城之内!」
 気を悪くしたのかモクバが癇癪を起こした声でオレの名前を叫んだ。
「だってさぁ、オマエ。リスにはさんづけでオレは呼び捨てなワケ?」
 ばさばさの長い髪を撫でるみたいにくしゃくしゃにすると、モクバは「そーだよ!」と言って、羽交い締めにしようと伸ばしたオレの手の中でまた暴れた。
 
「だって兄サマがそういったんだ!」
 
 するりと腕から抜けたモクバが、オレを見上げてそう言う。
「海馬が?」
 じゃあリスさんなんつったのもアイツかよ!
 モクバとしてる話と自分の知ってる海馬があまりに遠すぎて、思わずそう口にしていた。
 
* * *
 

03/10/07