青天の霹靂
act.4


 結局、翌日は忌々しい事故のせいで午前中は出社することになった。いつもよりピリピリしてるのが伝わるのだろう、まるで腫れ物に触るような態度の部下達がよけいに気に障る。
  朝一番に飛んできたゼネコンとサブコントラクターの取締役を慇懃無礼な口調のまま罵倒しても一向に気は晴れなかった。昼食はモクバと一緒に食べる約束をしていたから、遅くなったが二時過ぎに本社ビルを車で出る。一応、モクバには先に食べるように言ってあるが、また冷えた食事を目の前にして食卓で帰りを待っているような気がして、気が急いた。
  自分の弟には昔からそういう所があるのだ。一度した約束が反故に出来ないというよりは、極端に一人で食事することを嫌う傾向だ。養父が存命していた間は、自分と養父は食事を共にしたが、モクバが同じ席に着くことは許されなかったことを思えば無理がないことなのかもしれない。嫡子のみを重んじる海馬の家の決まり事だと言われ、見たくもない顔を前にして食事をし続けた日々だった。
  あのセレブリティを気取った成金男の前で、気を抜くことなく使わなければならないナイフとフォーク。正しいだけでなく美しくなければならないプロトコール。[protocol]といってもIT用語のそれではなく、それは国際儀礼におけるマナーを指す。どこに出しても恥ずかしくない「海馬」の名を冠する者。
  あの卑しい豚風情の口から上流を語られるたびに反吐が出そうだった。

 思い出したくもないことを思い出しているうちに、車は屋敷へと着いた。
「お帰りなさいませ」
  玄関先から列なして頭を下げるロワー・ファイヴとその先頭に立つ年配のメイド頭に手にしていた鞄を手渡す。
「モクバは?」
  春物のコートの袖を抜くのを手伝う若いメイドにそう聞くと、口を開きかけてアパー・テンに無言で制される。
「リビングでお客様とご一緒にお食事を取られています。」
  感情を含まない凛とした口調に、なにか余計なことを口にしかけたメイドを黙らせたことを読み取った。
「そうか」
  城之内と顔を合わせたくはなかったが、モクバの様子が気になってリビングに向かった。ダイニングルームではなくソファーとローデスクしかないような場所で客人(たとえそれが招かざる者だとしても、だ)と食事なんて、あまり褒められたことではない。
  細長い部屋の半分がガラスのサンルーム状に庭に突き出している明るいリビングは、昔からモクバのお気に入りだった。眩すぎるその場所を好んだのは先々代にあたる人物で、あの豚も俺もあまりその部屋を使うことはなかった。大きくとったガラスの向こう側には、少し離れて桜の木が植えられている。古くて大きなその木は桜の花を殊更好んでいた先々代が、車も殆ど普及していない時代にどこかの山奥から運ばせて移植し、大がかりな養生を行ったと聞かされていた。その時、たかだか年に数日しか咲かない花の為だけに成金の道楽とは滑稽なものだと思ったのを憶えている。確かにこの屋敷にはそのせいか桜の木が多い。裏庭の雑木林を奥に進んだ先にもかなりの桜が植えられていて、そういえばこの休暇が終わった次の週末に、モクバが学校の友達を呼んで花見がしたいと言っていたのを思い出す。好きにすればいい、と言うと嬉しげに夜桜のための照明を手配させていた。
  そういえば桜はまだ咲いていないのか。
  ちょうどリビングの上に自分の寝室があるから、何気なく朝にあの存在感ばかりが強い木がよく目にはいる。
  枝に蕾は覗いていたが、花がほころぶ気配はない。このところの童実野町の天候はといえば、コートが暑苦しいかと思えば冷たい雨が降るといった落ち着かないもので、開花宣言は来週になるだろうと新聞に出ていた記事を思い出した。
  モクバ、と、リビングの扉を開けて名前を呼ぼうとして口をつぐんだ。ソファーにあの忌々しい金髪頭の後ろ姿が見えたからだ。
「誰?」
  人の気配を感じたのか、振り返った城之内にそう声をかけられる。
「弟が、ここにいると聞いたので」
  そう言って、ソファーに近づいた。姿が見えないモクバを目で探す、と、ソファーに大股を開くようにして座った城之内の膝に、頭を預けるようにして、こてんと眠っている弟の姿が目に入った。
「あ、なんかこいつ。飯喰ったあと寝ちゃって…起こしたら可哀想だからこのままでいるんだけど」
  ローテーブルの上の白い皿には奇妙な物体が載っていた。
「…これは?」
  握り飯のような形をしているが、黄色っぽい色をしてる表面が焦がしてある。
  二つある皿のうち、片方には上から白い刺繍の入ったハンカチーフが掛けてあった。

「あ、カレーツナの焼きおにぎり!なんかこいつが、アンタが帰ってこないと昼飯喰わねぇっつってメイドさんにゴネるからさぁ、それじゃあアンタの昼飯作って待ってよう、ってコトになって。ほら、オレ目がこんなだから、今こいつに教えてやれる料理って、こんなのくらいしか思いつかなくってさぁ」

  照れくさそうな口調でそう言う凡骨の向かいに俺は腰を下ろした。この明るい部屋で見る黄色い頭は、いつもにまして忌々しく陽気そうに見える。
「昼食…ですか」
  ふん、昼食ねぇ…。
  忌々しい、こんな残飯みたいなものを俺に喰わせる気か、と思いながら、どう上っ面の笑顔で遠回しに辞退しようかと考えた。
「こっち!こっちはこいつが握ったんだ!!兄ちゃんが帰ってきたら喰って貰うんだって張り切って…」
  そう言われて、考えていたはずの敬遠の言葉は出る場所を失ってしまう。
「ん…っ」
  城之内が大きな声を上げたせいか、ヤツの膝の上で寝息を立てていたモクバが目を覚ました。
「…兄サマ?」
  目をこすりながらもそりと起きあがる。
「ただいま」
  そう言うと、きょとんとした顔でモクバが俺の顔を見た。
「おっ…おかえりなさい!」
  そう言う弟の顔は、しばらく見た記憶がないくらいに無邪気で華やいでいる。
「あのさ!これオレが作ったんだ!!兄サマまだご飯食べてないでしょう?」
  目を輝かせてそう言う弟に、逆らう言葉などあるわけもない。
「…美味しそうだな」
  そう言えばもっと幸せそうな顔をすることを知っているからそのまま皿の上のいびつな物体を手に取った。
「中にツナとタマネギをカレー粉で炒めたのが混ぜてあるんだ!厨房から借りてきたトースターでオレが焼き目つけたんだぜィ」
  あんまり嬉しそうな顔をされて、少し躊躇いながらもその握り飯を口にする。もっとジャンクフードみたいな味がするのかと思ったが、まぁ食べられない味でもなかった。
「美味くできてるね」
  その言葉の後に、モクバ、と名前を口にしかけてまた黙る。
  こんなよそゆきの言葉を使うのもまどろっこしい。
「よかったなー!」
  まるで自分のコトみたいに笑う男が、モクバを抱きしめてその髪をグシャグシャとかきまぜる。
「もぉー!ぐちゃぐちゃになっちゃうだろー!」
  胃がチクチクとする理由が分からない。
  でもこの明るい部屋に似合ったモクバの歓声も、城之内の笑顔も、全部自分からは酷く遠い気がして言葉を見失う。
「じゃあボクはちょっと用事があるからこれで。ごちそうさまでした」
  手にしていた握り飯を最後まで食べ終わると、そう言って部屋を後にする。

「あ!兄サマ!」

 そういったモクバの声は、聞こえたのにどうしてか聞こえないふりをしてしまった。

***