「なんでこんなに広いんだよ・・・・」
海馬がたまに寝泊まりするのに使っているという部屋は、いわゆる長期滞在型専用ホテルのスィートルームというやつだった。
玄関のドアを開けて進むと左手に横に細長いキッチンがあって、更に開けたドアの奥は10畳以上ありそうなリビングになっている。
だだっぴろい黒檀の床の、手前の壁面の棚にはオーディオセットと液晶モニターが並んでいて、ダイニングテーブルとチェアーが置かれていた。ピンライトみたいな白くて冷たい色の光が、重厚なテーブルに円く落ちて室内を明るく照らす。奥の窓際には白のファーっぽい絨毯が広げられていて、その上に青く染められた革製のソファーセットが置かれている。
「あっちが客間だから、そっちを好きに使うといい」
そういって海馬は、リビングの手前奥にあるドアを指さした。そのままツカツカと青いソファーの更に奥、観葉植物の後ろにあるデスクに向う。
「これ、いらねぇの?」
重いジェラルミンケースを持ち上げる気にはなれず、足下に置いたまま下向きに指さした。
「持ってこい」
当然といった風の命令口調に一瞬キレそうになったが、泊めて貰う手前そういうワケにもいかず、しぶしぶ持ち上げて海馬の側に運んでやる。
コートを脱いでデスク後ろの壁にあるハンガーに吊そうとしていた海馬は、(机の上に置け)というように無言で卓上を指し示す。
「ほらよ」
オレはケースを机の上に置いてやった後、デスクの後ろにあるソファーベッドに腰掛けようとして、自分の制服が濡れていることを思い出す。
ヤベェ、濡らしちまう。
ソファーベットの真上の天井がちょうど天窓のようになっていて、そこからちょうど満月に近い月が映ってみえた。それにみとれかけて、ついつい座りそうになったんだ。
「風呂に入りたいなら、貴様に貸す部屋より奥にあるから勝手に使うといい。俺の邪魔はするな。」
開いた鞄の中身は、いつもと違うもので埋め尽くされている。ノートパソコンに携帯に幾つかの分厚いファイル。てきぱきとそれらを取り出して机に配置していく姿を見ながら、「じゃあ風呂借りてくる」とオレは歩き出した。
***
エアコンのおかげで随分寒くなくなったけど、自分の指先に口づけたら、氷を口に入れたみたいに冷たかった。やべぇなぁ、と思いながら、風呂を探す。・・・と、これかな?という白い扉を開くとやっぱりそこがバスルームだった。
バスルームの手前が脱衣所になってて、外国製らしい自動洗濯機と乾燥機までついていた。ラッキーだ。コレで濡れた制服も乾かすことができる。
タオルとバスタオルはいくつも洗面所の横に置いてあった。
オレは、ちょっとホッとしながら濡れた制服を全部脱ぐと、乾燥機に纏めて放り込んだ。
バスタブには既にいっぱいの湯が張られていて、高い位置に取付られたシャワーのコックをひねったら、パァッと熱い湯が降ってきた。冷たく冷え切った身体には、刺すような熱さに身震いする。じっと息を潜めるみたいにして、シャワーの温度と体温のバランスがとれるまで飛沫を浴びることにした。
熱い湯がバラバラと髪に頬に肩に零れて床に伝うごとに、ヒットポイントが上がっていくカンジがする。急激な温度変化に一瞬、頭がクラクラした。
一体どのくらいの間、オレはあの雨の中を歩いていたんだろう。
頭の中がオレンジ色に染まるみたいな幸福感。
しばらくしてバスタブに身体を沈めると、一気に全身の体温が上昇して、本気で生き返った気分になった。
***
髪をガシガシと拭きながら、脱衣所に出てくると、バスタオルの上にホテルネームの入った白いパジャマが置かれてあった。着ていいものかどうか一瞬悩んだが、おそらくバスタオル一枚で出てくるなということだろうと思い、袖を通す。
オレは随分長い間バスタブに浸かっていたらしく、勢いよく回っていた乾燥機の回転も止まっている。殆ど乾いた制服はまだ生暖くて、掌にその熱がじわりと伝わってきた。
「海馬」
制服を手に、浴室を出た。浴室を出てすぐの短い通路の右手がキッチン、左手がベッドルームになってるらしい。オレはとりあえず、髪を拭きかけたタオ
ルを肩にかけたまま、海馬のいるデスクの側に歩いていく。
「・・・邪魔するな、と言った」
海馬の後ろからノートパソコンの画面を覗きこむと、不機嫌そうな声でそう言われる。何かの設計図?黒い画面に何色もの線で配線のようなものが描かれている。
「なにそれ?」
なんか数字でも扱ってんのかと思ってたから、意外に思ってそう聞いた。
「貴様の理解の範囲のことはしてない。構うな」
そう突き放した口調で言い切った。
「なぁ」
「うるさい」
いつもならそんなもの言いに腹を立てて切れてるところだったが、今日はなんでだかそう腹も立たない。
「どうせ仕事で寝れないんだったらさぁ、会社で続きもすればいいんじゃねーの?」
海馬コーポレーションからこのホテルまでは500mも離れてない。目と鼻の先というヤツだ。なのにどうして寝れもしない別宅に帰ってくるのかが判らない。
「どうして会社で仕事をしない?か・・・。貴様、仮にも企業のトップに立つ人間が、連日こんな夜中まで己の会社で仕事をしていたら、そのせいで帰れない社員がどのくらいでると思う?」
そういわれて、つまんねぇことを聞いたなぁと思った。
「オマエは自分の部下が帰れねぇからここにくんのか?」
更につまらないことを聞いてるな、オレは。と思いながらもそう聞いてしまう。
海馬は、パソコンのホイールマウスで鮮やかに幾つものラインを足していきながら、本当につまらない事を聞いてくるなという顔で口を開いた。
「屋敷にいればいたで、寝なければ、モクバが寝なくなって困る」
そう言った後で、今度は本当に会話が途切れてしまう。
海馬のまだ小さい弟が、枕ひとつ持って眠れずに兄の部屋を覗く姿は安易に想像がついた。どうして弟妹っていうのはどこの家でもそんななんだろうな、ふいに離れて暮らす自分の妹にも、そんな頃があったと思い出す。でもまぁ、その口にはあまりに不似合いな人道的発言を聞いてしまった、という感想もあって。
「・・・なぁんかいい兄貴やってんじゃん、オマエ」
おもわず海馬的にカチンとくるであろう言葉をあえて口にした。
先週のことといい、こんなんじゃこっちの勘が狂う。
でもオレの言葉に海馬の返事はなくて。罵声も皮肉も返ってはこない。
カチ、カチとマウスを押す音だけが辺りに小さく弾けていた。
「オヤスミ。ってまぁオマエもあんまり無理すんなよ・・・風邪でも引いて倒れたら、モクバが泣くぜ」
そう言ってオレはパソコンのモニターから視線を外すことのない海馬を背に、与えられたベッドで眠るために歩き出した。
***