all standard is you
act.3

 目を覚ましたのは、自分の腕時計の小さなアラーム音でだった。
 一瞬、いったい自分がどこにいるのか判らない。三角形の間取りにベッドが二つあって、サイドテーブルの上にはオレの学生鞄があった。
「ああ・・・海馬の部屋か」
 暗いブルーで統一されたシックなインテリアに、全体的にいいようがない清潔感。自分が使ったのとは反対のベットに誰かが使った形跡はない。海馬はまだ仕事をしてるのかと思いながら、フローリングの床の上に足を降ろす。ヒンヤリと冷たいのかと思ったら、柔らかく暖かくて、床暖房になってるのに気づく。
 とりあえずサイドデスクのイスに掛けた自分の服に着替えようとした。ずぶ濡れの制服はもうちゃんと乾いている。
 全部着替え終わってから、顔を洗おうと部屋の外に出た。部屋の向かいのキッチンにも、右手のバスルームにも左手のダイニングにも灯りは点いて無い。
 まだ夜明け前だけに薄暗くてオレは馴れない暗闇に、ドアの横の壁に小さく光るスイッチを押すと、廊下にポッと灯りがともった。
 顔を洗う前にちょっとダイニングの方に足を進めると、昨日海馬がノートパソコンを広げていた机には人の気配はなく、オレが座り掛けたソファーベッドで寝ているっぽいのが見えた。
 起こしても悪いと思って、それだけを確かめると、そのまま顔を洗いに行く。
 
「さて・・・どうしようか」
 洗面台で顔を洗ってタオルで拭きながら、誰に言うでもなくそう呟く。バイトに行くにはまだまだ時間がある。
 一夜の寝床の礼なんて柄じゃないって言われそうだけど、なんかそのままここを出ていく気にもなれなくて          殆ど使ってる形跡がないキッチンに足を踏み入れた。
 
 銀色に光るシンクの横に、エスプレッソマシンがポツンと置かれているだけで、さしたる調理器具もない。シンクの下にある黒檀調の扉を開くと、奇跡的にケトルとフライパンが入っていた。期待せずに冷蔵庫を開くと、ワインが一本とカマンベールが一箱。バターと蜂蜜の瓶が入っている。
 
 この部屋での海馬の食生活が目に浮かぶようだ。トーストを焼くくらいと珈琲を入れることくらいにしか使われてそうにないキッチン。
 朝から晩まで緊張感いっぱいに仕事して、会社から解放されても自室でパソコンを広げて浅い眠りのあとに目を覚ます。グルグルとそういう生活パターンの繰り返し。
 
「・・・人間ってさぁ・・・そんな毎日でいいワケ?」
 
 誰にいうのでもなく、これは独り言だ。毎日ではないにせよ、察するに海馬がここでそういう夜と朝を送ることは少なくはなさそうで。オレはそういう日常を繰り返していくと人間がどういい状態になるのかを多分よく知っている。
 新しくバイトを始めてから、そんな人間ばっかり観てきた。喩えればスゴイ緊張感で、ひとつずつ立て続けたドミノの板がパチンと倒れてしまう瞬間。
 こんな生活してるヤツには、遅かれ早かれそういう状況がやってくる。
 ・・・いや、海馬ならそんなに簡単にそういう風にはならないのかもしれない。少なくとも本人にそんな言葉を告げようものなら、一笑に付されるか即罵倒されるかだろう。
 
 でもそれはそれで、何らかの代償を払っているに違いない筈だった。喩え本人が永遠にそのことに気づかないとしても。
 
 
 部屋の入口に差し込まれていたメタルのカードキーを失敬してオレはそっと部屋の外に出た。
 
 昨日はとにかく寒いやらであまり気にもしてなかったが、いかにも高そうなホテルだと感心する。建物の真ん中が正方形にストンと吹き抜けになって、広いワンフロアに部屋のドアは、オレの出てきた向かいと右と左、その4つしかない。少し手すりに身を乗り出して見下ろすと、遙か地上のエナメルの床の中央には、大きな花瓶があって、そこには溢れそうな原色の花が咲き乱れている。
 絨毯引きの廊下を歩いた先には、堅い蕾をつけた寒桜の鉢が幾つも置かれたエレベータホールがあった。
 
 ポーン。
 
 機械音と共にドアが開く。全部がオレの日常からあまりに遠い。
 
 1階について、とりあえずフロントを横切ると、こんな時間にもかかわらずキチッと制服姿のホテルマンが「いってらっしゃいませ」と声を掛けてくる。オレはビビリながら「オハヨーゴザイマス」と言って、正面玄関の自動ドアを抜けた。
 
         早朝の空気は冴え冴えと澄んでいて気持ちいい。
 
 ・・・まだ夜も明けていない。
 時計を見ると朝の5時半を回ったところだった。朝刊を配っていた頃は、ちょうどこのくらいの時間に配達を終えて配達所に帰っていたはずだ。
 新聞配達の仕事は、本当に朝が早い。夜中の三時過ぎに営業所に着いてから社員さんを真似て広告を折り畳んで、自分が配る新聞の間に挟み込んでいく。それをすませて四時前には店を出ると、お得意さまを一軒一軒回っていくんだ。オレの持ち場は駅前のオフィス街が中心で、団地とかじゃない分、体力的には割と楽だった(自分で住んでていうのもなんだが、エレベーターも着いてない団地の朝刊配りは地獄としか言いようがない)。
 一社しか扱ってない配達所でも、配る新聞は、一般紙・スポーツ新聞・経済誌なんかの専門紙・英字版と色々種類があって、「○○の会社は一般二部と専門・英字が一部づつ」とかいう風になってるのがすげーややこしい。オレも間違えないように初めは自分で作ったメモが手放せなかった。
 でもノルマ通り、時間内に決められたことを淡々とこなしていくカンジは嫌いじゃなくて。
 春も夏も秋も冬も、バイトの途中に見あげる夜空は好きだった。
 
 ・・・いつだって「早朝」っていうのは、一日がリセットされる時間だと本当に思う。
 
 冬の早朝にだけ見える、闇の黒と光の白の2色を重ねた様な空の色があって、一瞬、重なるはずがない黒と白が重なったように見えた後、サァーッと水色の空が広がっていく。その明るい青に、明けの空に散らばる星が消される。
 吸いこんだ息が冴え冴えとしててまるで濁りのないカンジ。肌にふれる空気は、まるで居ずまいを正したようにシャンとしている。そういうのが好きだったんだ。
 
***