俺は持って帰ってきた書類をパラパラと捲りながら、二段ベットに凭れてインスタントコーヒーを啜っていた。ガタン、と音がしてカーテンがめくれ上がる。冷たい風と一緒に、見慣れた男のシルエットがカーテンに浮かんだ。
「よ!瀬人!」
白い息を弾ませるみたいにして、ダウンジャケットにジーンズといった出で立ちの城之内が、汚れたスニーカーを手に上がり込んでくる。
「俺は貴様に用などない。そんなところから勝手に上がりこんでくるな」
そう言って、一瞥した後また書類の文字を追おうとした。
「え〜!」
不満げな声を上げた城之内が、俺の側に寄ってくる。
「……くるな。帰れ!どこかに行け!!」
触ってこようとする手から逃げるみたいに首を竦めた。ギロリと睨んでも、まるでお構いなしといった顔で、床についていた俺の手に真冬の空気が染みこんだいつもと違ってひどく冷たい手を重ねた。
「暖けぇー」
ははっ、と照れるみたいに笑う。そのにやけ面が癪に障って、近づく顔を書類を持ったままの掌で押し返した。
「離れろ」
「なにこれ?」
その声にハッとした瞬間には、紙の束は城之内の手に移っていた。
「返せ」
伸ばした手から逃げるみたいに、城之内はヒラリと俺が凭れている二段ベッドの上段に飛び乗った。
「おい。汚い足で人のベッドに上がるな!」
「えー…と、か、海外特別研究員、募集、要項?」
辿々しい声で読み上げる、その声の主から書類を取り返すのは諦めて、先週図書館から借りてきたままの文庫本を読み切ってしまおうと、立ち上がった、
「なにこれ」
乾いた声が聞こえた。俺はそんなの聞こえないふりをして開いた本の活字を追う。
「瀬人」
ごそごそとベッドから降りてきた城之内が、神妙な顔をして隣に座る。
「ひっついてくるな」
もう一度重なる掌。ほんの少ししか時間は経ってないのに、さっきあんなに冷たかった手はもう俺の手よりも暖かくなっていて。
「なぁ」
でも耳に寄せられた唇は冷たい。
「じゃれるな!」
引きはがそうとして、そのまま俺は城之内ごと床に倒れこむ。
「別にじゃれてんじゃねーよ。これは愛情表現!」
ただべったりと腕を身体に絡められて四肢は床に転がされる。後ろから抱え込むように抱きついてくる城之内の腕がほどけない。イライラする。
「……あのさぁ。俺もうずっと考えてたんだけど」
俺は抜け出すのを諦め、床で羽交い締めにされたままで文庫本を捲る。
ムカツクから返事はしてやらん。
「来年、卒業したらさぁ。おまえもここでなきゃなんないだろ?俺ちゃんと就職するからさぁ。そしたらおまえもモクバも一緒に」
いきなり夢物語みたいなことを言い出すから、茫然とした。
どうして俺とモクバが、おまえなんかと……。
「貴様、馬鹿も休み休み言え。笑えない冗談だな」
背後から耳元に唇を寄せてくるのがくすぐったい。それを避けるみたいに身体を竦めてスルリと腕の下から抜け出した。
「そう言うことは、好きな女にでも言え」
真ん中で分けた前髪から覗く額を、握った拳の第二関節の角でゴツン、と叩く。
「イッデーーー!」
寝転がったままの馬鹿が余計なことをしないように、その背中の上に乗り上げるみたいに腰を下ろした。
「いちいち五月蠅いやつだ」
そういって、城之内の手が握りしめたままの書類をむしり取ろうとする。
「いいかげん離せ。もう見たんだろう?」
掴んだ指に力を込めて解こうとしない。
「いやだ」
……そんな物言いしたところで、かわいくなどないわ!と罵声を浴びせたくなったが、想像以上に傷ついたみたいな声を出すから諦める。
「好きにしろ」
仕方なく、また文庫本を開く。
少しの間城之内は俺の下でソファー代わりにされて大人しくしてたから、ついつい小説の世界に入りこみそうになったときに俺を呼ぶ声がした。
「瀬人」
城之内は俯いていて、背中に乗っている俺からその表情は伺えない。
「―――――― オレは、おまえのことが好きだ」
* * *
城之内がもう何度目かになる一方的な告白をして帰った夜、久し振りにあの”手”の夢をみた。
あれが誰の手だったかなんて、そんな追憶は感傷にすぎない。
ただもうずっと、自分の分岐点のような場所に立つ度に、どうしようもない絶望に攫われそうになる度に、俺はあの夢を見る。その度に、あの握る手の温度を思い出す。
何度も感じていた。それは子供の頃からずっとだった。父や母が生きていた頃から、きっと多分生まれる前から。
自分のことを冷静で常識的な人間だと思うのと同時に、それを否定するような暗くて大きなものが起きあがりそうになるのを感じるんだ。
もし、それが目覚めてしまったら、なけなしの理性とプライドを押し出すみたいに何とか立ってるだけの今の自分なんて、きっと足下から崩される。
狂気が。
喉元まで這い上がってくる。
夢の中で。
苦しくて、苛立たしくて、喉を押さえようとすると、伸びてくる甘い手。
あれが出てきたら大丈夫なことを俺は知ってるんだ。だから必死でその手を掴む。助けて、と、悲鳴を上げるみたいに強くその手を掴む。
目が覚めると、枕元の枕元の目覚め時計が視界に入った。深夜のまさしく丑三つ時。白いパジャマが魘されたせいか汗ばんでいるのが分かった。
(オレは、おまえのことが好きだ)
今に始まった言葉じゃない。
大体俺とあいつは、清い関係というのでもない。
城之内と初めてセックスの真似事をしたのは、その意味も分かってない頃だった。少なくとも俺は分かってなかった。
中学に上がったばかりの頃だったと思う。
雨の日で、傘を持たずに図書館に行っていた俺が入口の軒先に立っていると、通りすがりの城之内が送っていってやる、と言ってきた。でも途中で雨はバケツをひっくり返したみたいな豪雨になって、近かった城之内の家に連れ込まれた。
下着までずぶ濡れになった俺を二段ベッドのハシゴに凭れさせて、城之内はバスタオルで包み込むみたいに俺の身体を拭きだした。
(脱がないと、風邪ひくから)
今にして思えばとんだエロガキもいいとこだな。
言いくるめられるように裸にされて、訳も分からないうちに俺はあいつの性欲の対象にされていた。
あの時、城之内は少なくとも初めてではなかったんだろう。秘密を囓らせるみたいに甘い手管で、俺を穢した。
それから何度か、といっても両手で足りるくらいのセックスはしたと思う。城之内がどういうつもりだったのかはしらないが、俺は年相応の性欲を手近で処理しただけの印象しかなかった。
なのにまるで恋人気取りで俺を抱こうとするこいつが煩わしくて。
だからもう一年以上前、やってる最中の、まさに一人興奮もピークの城之内に、
「おまえがしたいといってるのは、恋愛か?それとも強姦か?」
と、真顔で皮肉を言って泣かれて以来、こいつとはそういう関係は持っていなかった。
酷く傷ついた顔で俺を組み敷いたまま泣き出したから、これに懲りて、もう二度と俺のところになど来たりはしないだろうと思った。
でもあいつは懲りなかった。
しばらく来なかったかと思うと、まるで何事もなかったように俺に近づいてきた。じゃれてくることはあっても、セックスは仕掛けてこなくなった。いったいなにが目当てでこいつは俺をかまうのか、サッパリ分からない。
でもそれ以来、俺はあいつを傷つけることに、なんの躊躇いも抱かなくなったのはことだけは確かだった。
* * *
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