甘い手
act.3

 

『兄サマ?』
  夜中の電話の主は、久し振りに声を聞く弟だった。
「どうした、モクバ」
  遅いから静かにね、と電話を繋いでくれた寮母が部屋に去っていく。この建物はもう古いからどこからともなく凍えるような外の空気が入りこんでくるのだ。
『昨日の夕方、城之内がこっちに来たんだけど……もうなにか聞いた?』
  その声は、奇妙な期待が含まれていたから、俺は思わず怪訝な声で聞き返した。
「たしかにあの馬鹿なら来たが……」
  まるでプロポーズみたな言葉をいきなり口にして、好きだ好きだと喚くのを最後は苛立ち紛れに追いだした。
『オレは別に兄サマと暮らせるんなら、城之内がくっついてきてもいいんだけど……』
  話が見えない。
  頭は悪くないはずの弟までもがおかしなことを口走っている。
「だれが城之内と一緒に暮らすんだ」
  ウンザリしながらそう言った。そんなことを口にするのさえ億劫だ。
『聞いてない?ほら、こっちの親が離婚するって話』
  そんな話、初耳だぞ。
「……聞いてない!どういうことだ?!」
  モクバを引き取った年配の夫婦は善良を絵に描いたような人たちで。いつもひっそりと静かに二人で寄り添うようにしているみたいに見えた。夫婦仲が悪くなったなんて話は聞いていない。
『すぐにじゃないけどね。オレが義務教育が終わる頃、っていってたから3年くらい先かな』
  まるで他人事のようにサラリと口にするモクバよりも、ショッキングなその内容よりも、そんな大事な話を自分よりも先にあの凡骨に話しているという事実に傷ついた。
  モクバは淡々とした口調で語り出す。来年定年退職を迎える小学校の教員夫婦は、仲が悪くなったのではなく、働くこともなくなる今、お互いに本当にやりたいことをして暮らしたいのだと。そう話した養父母は、それでも二人ともモクバのことは本当の子供のように愛していて。何度も話しあった結果、モクバが高校を出るまでは、という話になったそうだ。
  ところが聞かせるつもりじゃなかったその話を聞いてしまったモクバが、自分のためにそんな我慢はしないでくれ、と言ったのだという。
「……明日、そっちの家にいくから。いいな。話はそれからだ!」
  弟は、こんなに大人びた風に話す子供だったろうか?と。そう思いながら、それでも怒りに震えて話を聞いていた。本当なら今からでも押しかけてやりたいくらいだ。オレからモクバを取り上げた連中を、オレは本当は認めていないというのに。
  こんなとき、卑怯な大人に怯まずにすむ権力が、今の自分にあればいいのにと思う。どうして自分はこんなにも、社会的にちっぽけな存在なのだろう。

―――――― この世の全部を憎みたい気持ちにもなるさ。

 子供の頃から、そう考えざるをえないような状況ばかりが自分の身に迫るのだから。

* * *

 完全にへそを曲げていたオレのところに、城之内がやってきたのはそれから一時間ほどしてからのことだった。時計を見れば丁度夜のバイトが終わったぐらいだったから、直接ここに来たことが分かる。部屋の電気をつけたまま、いつもかけない窓の鍵をパチンとかけておいた。こうすれば城之内は入ってこれないと考えたからだ。

「……なに怒ってンだよ」
  閉め出されたことに気がついたのか、玄関を回って普通に俺の部屋に来た城之内は、もとから鍵のついてないドアを開けて簡単に中に入ってきた。もうずっとあの窓の向こうからしかこいつがここに上がり込むことはなかったから、ひどく違和感を感じる。
「モクバからバイト先に電話があった。さっき」
  椅子に座って机に向かったまま、そんな全部を無視して数学の課題を解き続ける。
「瀬人」
  近づいてる気配に、鉛筆の先を強くノートに押しつけた。パキッと、折れた芯が飛び散る。
「おまえがっ……!」
  モクバが昔から、オレに黙って、こいつに色々な相談を持ちかけていたのは知っている。血が繋がっていないから、他人だから、だからこそ話しやすいことがあるのも分かってるつもりだった。
「おまえがモクバの兄になればいいだろう!二人でオレを馬鹿にするような真似をして……!」
  怒りで顔が赤く熱を帯びていくのが分かる。
「違うだろ。ちゃんとオレの話を」
  うるさい!うるさい!うるさい!
「触るな!!」
  背中から抱きしめて暴れる俺を封じ込めようとする腕から逃れて、手にしたままだった先の折れた鉛筆を振りかざした。
  瞬間、確かな手応えと共に、ザッ、と音がした。
「ッてぇー……」
  城之内の手の甲に、見てとれる位にハッキリと、折れた鉛筆が肉を薄くえぐった痕が走っていた。怯んだ隙に、机の上の英和辞書を箱ごとヤツの顔めがけて投げつける。
「瀬人!」
  さすがにたまらないという声でオレの名前を呼ぶ。
「帰れ!!」
  睨みつけながらそう言うと、眉をしかめて険しい顔をしていた城之内は、ハァ、とため息をついた。
「……わかった。今日は帰る」
  その言葉に、更に投げつけるものを捜していた手を止めた。

「でも瀬人。明日、モクバのことは叱るなよ。あいつは心配掛けたくないから、おまえに気を遣いすぎてんだよ」

―――――― その言葉が、さっき城之内の手を抉ったのよりうんと深く俺の心に傷を付けていた。

 俺には一枚の青写真があった。

 慎重に描いてきたはずの未来予想図。
  高校を卒業したら、ちょうど十年いたことになるこの施設からも出て行く決まりになっていた。親が残した遺産など俺たちの手元には一銭も残りはしなかったから、それまでの間にバイトでも何でもこなして金を貯め、奨学金で行ける大学の工学部にでも入って技術者を目指すつもりだった。
  実際、今の段階でも預金通帳には結構な額の残高があった。高校に入ってから学校のコンピューターを好きに使えるようになったから、いま一番金になるような携帯モバイルのジャンルで隙間商法のようなプログラムを組んでは幾つかの企業に売るようなこともしてきた。そこらの下請けよりはよっぽど今売れるものが判っているし、それを書く才能が自分にはあると思った。
  どう自分を切り売りしてでも、二十二才になるまでにまとまった金を作ったら、大学院はアメリカに行って一番環境が整った場所で電気電子工学がやりたいと思っていた。
  自分が二十二才になる頃、五つ歳の離れた弟は十八才になる。半年ほど前の梅雨が終わる頃、モクバを引き取った里親と、こんな約束をしていた。”もし、俺が大学を出るときにまでに、弟を養うだけの経済力を身につけていたら、モクバが大学に通う間の四年間、俺の元に弟を預ける”という内容の。
  FellowshipかTeaching Assistantshipで奨学金を貰いながらだったら、なんとか弟も連れて海を渡れると考えていた。
  それは自分が見た夢のために必要なものだった。モクバがまだこの施設にいた頃に、約束をした。あの時、まだ五つやそこらだったモクバがそれを覚えているかどうかは知らない。モクバが覚えているかどうかじゃない。最初で最後。それはたった一度だけ自分で口にした夢だったから、モクバが忘れてしまっていたら、途端に行き場を無くすんだ。

* * *


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