甘い手
act.9

 

「あー入れてぇー」

 朝の光が差し込む団地の狭い浴室で、縺れるようにシャワーを浴びていた。いつも一人で入ろうとするのに、勝手にこいつがついてくるんだ。足下でじゃれる犬みたいに。
「死んでしまえ」
  また元気になってる股間のものを後ろから押しつけようとする城之内に肘を入れる。
  ふざけるみたいにうめき声をあげながら最後にはゲラゲラと笑いだす。笑いながら、急に大人しくなったかと思うと背中から抱きすくめるみたいにして、妙に真剣な声音で、好きだ、という。

 こんな朝ももうこれが最後だ。

 そう思うと驚くくらいに自分が動揺しているのが分かった。
  この馬鹿となれ合いみたいにするセックスをすることがもうないのだということが。もうこんな風にふざけて笑う顔を見ることもないだろうということが。

 息が苦しい。
  言葉を全部なくしたみたいな気分だった。
  こんな最後に。気がつかなくていいことにどうして気がつくんだ。

「なぁ。そういえば俺に渡したいものって何だったわけ?」

 その言葉に、ふと我に返る。
  絡みついた腕をゆっくりと解いて、先に出る、と言って俺は浴室を後にした。出入り口の足下に置いてあるバスタオルを拾い上げると、そのまま肩から羽織るみたいにして、アルミでできた軽いドアを閉じる。
  出てきたドアの正面にある洗面台の鏡には、随分不安そうな顔をした自分が映っていた。

(瀬人?)

 磨りガラス越しに、くぐもったような声で名を呼ばれた。甘い声。この耳に、自分を呼ぶあいつの声はなんて甘く聞こえるんだ、と、内心呆れた。そう、自分自身に。
「なんでもない。勝手に帰るぞ」
  城之内が風呂から出てくる前に俺は制服に着替えると、昨日抱かれた、ヤツの布団が敷いてある二段ベットの枕元にある棚に、鞄から取り出した俺のデッキをそっと置いた。
  プラスチックのケースに収まった紙の束。
  四十枚で構築したこのカードこそが、俺のプライド。自分の考え方も、生き方も、ここに集約されている。もう一人の自分自身。
  ふと思い出して、置いたケースをもう一度手にした。手に馴染んだその箱を開いて一番底に入れた一枚を抜き出す。
  これはゲームとは関係のない一枚。つたない子供の筆跡で、画用紙に色鉛筆で描かれた青眼白龍。
  今でこそ、このデッキの中に本物のそれが入っているが、これは昔、弟が俺にくれた一枚なんだ。勿論実際に使うことはできないが、初めて他人に決闘で負けた後、(これがあったら兄サマは勝てるよね?)と泣いて真っ赤にした目で渡してくれた大切なものだった。
  抜き出したその一枚を、学生服の内ポケットに入れていた生徒手帳の間に挟む。そしてさっきの棚へとデッキケースを戻した。

 名残惜しくないといえば、嘘になる。

 決闘をしてる間は、他の全てを消してただ闘うためにその場所に立っていることができた。頭の中で計算するのは見ることはできないランダムで積んだカードが握る勝率。強く願いさえすれば、いつでも俺は自分の窮地を救うカードを引き当てれる。
  現実はそうそうままならないというのに、神がかった引きのよさにも後押しされて、この業界でただ一人の男を覗いては、負けることなど一度もなかった。
  武藤遊戯。
  普段は頼りないだけのチビに、結局一度も勝つことはなかったな。それだけが心残りだったが、おそらくこの先の人生で、もうこのカードを手に決闘をすることもないだろう。それを思えば、この先の人生ずっと持ち歩くには、これには色々と思い出が多すぎる。
  凡骨なあいつには不相応なレアカードばかりだったが、いまの俺が、他人の記憶に届くくらい強く気持ちを残せるものも情けない話だかこれしかない。

 何を残したい?城之内に。

 ちがう。残したいんじゃない。忘れさせたくないだけだ。
  最後に気づいてしまったのは、何度キスをされても、セックスを許しても、ずっと否定していた恋心。
  たとえ俺がおまえのことなんて全部忘れてしまったとしても、それでもおまえが俺を忘れることは絶対に許せない。

 だからこれを置いていくんだ。

 冷たい鉄のドアを閉じて、俺はまだ肌寒い初春の朝を抱く風に吹かれながら、きっと最後の学生服で、施設への道を静かに歩いていった。

* * *


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