この街を後にする準備は昨日学校に行く前に終わっていた。
本当に必要な荷物なんて殆どないから、ボストンバッグひとつと紙袋に収まってしまった。手元に送られてきた東京行きのチケットに記された時刻は二時間後。まだ少し時間がある。
少し躊躇って、俺はカバンの中から取りだした便箋に、迷いながらも言葉を綴ることにした。
あとは手紙を一通書くだけだ。モクバの分はもう書き終わっている。こっちは出発する直前に空港から投函すればいい。
本当はこの一通も、もっと早くに書き終えている予定だった。手紙は好きじゃないし、筆まめな性格というのでもない。それでもこれから自分が白い便箋に綴るのは、正真正銘、初めて考えた恋人への別れの言葉。
そうだな。確かにおまえは、俺の恋人だったんだろう。
城之内の部屋からの帰り道、妙にすっきりとした頭に浮かんだのは、ひとことだけ。その短すぎるその言葉を、できるだけ丁寧に万年筆で書き記す。
『幸せに』
―――――――― 祈りのように、願いのように。
なんて俺に似つかわしくない言葉なんだろう。
ふん。まるで城之内がいいそうな別れの言葉だな、と苦笑しながら。
でもその言葉ばかりが俺の頭の中を廻ってた。
* * *
結局一言だけしか書けなかった手紙と共に、財団から送られてきた今回の支援事業の内定通知を封筒に入れて封をした。
「もし、城之内がここに来たら渡して貰えないかな」
そう言って寮母にその手紙を預けた。夕方に面談の結果が出たら、残した俺の荷物は処分して欲しいとの旨も伝える。
ちょうど迎えに来た海馬コーポレーションからの迎えの車に乗り込んで、最後にガラス越しに見た俺の育った場所は、頭に浮かぶよりも清楚でいい建物みたいに目に映った。
海馬コーポレーションの本社に一度寄って、先日の担当者が車に乗り込んできた後、車は海岸線を通って空港へと向かった。
途中大通りの交差点で車が止まっている間、ウトウトしながら窓の外を見ていると、小学生の兄弟らしき子供の、弟の方が歩道で転んだのだろう、泣きじゃくって座り込んでいるのが目に入る。お兄ちゃんらしき子供は、その前に座り込んで泣く小さな子供の両手をぎゅっと掴んでいた。
眠い。昨日の疲れが急に睡魔になって襲って来るみたいな感じがした。
微笑ましいな、と思いながら、自分のことを別の記憶が遠くから呼んでいるのが分かる。
―――――――― あんな風に俺に差し出された手が確かにあったっけな。
分かってたくせに、分からないフリをしてた。あの手は希望だったんだ。本当にもう駄目になった時、必ず自分を救ってくれる甘い手。
なんだか癪だから、いつまでも俺はその手をとらずにいた。
夢の中だったらあんなに素直に掴むことが出来るのに。
結局最後まで、現実で差し出されたあの手をとることはなかった。
そう思った瞬間、さっき書き残してきた城之内への手紙を思いだす。
”幸せに”
胃の辺りが急に熱くグッと痛んで、思わず口元を押さえて堪えるみたいに後部座席のシートに埋もれて身体を折る。どうしてそんなことを書いたんだ、俺は?
沸々と怒りがこみ上げてくる。冷静に考えれば考えるほど、城之内が俺のいない場所で、他のだれかと幸せになるなんて、そんなこと許せなかった。
許せない?違う。嫌だ。嫌でたまらないんだ!
もう一度、あの手が差し出されたら、今度は絶対に掴んで離さないのに!
そう思った瞬間、目を閉じて身体を折るように暗闇に屈み込んだ俺に、いま願ったとおりの手が伸ばされた。節くれた長い指の、陽に焼けた大きな手。
俺は必死で伸ばされたその手を掴む。記憶通りの暖かい手。
振り払われたりしないように、拒まれたりしないように、両手でギュッとその手を掴んだ。
「瀬人」
暗がりの向こうから浮かんだのは、見知った笑顔。
俺がとった手の持ち主は、ちゃんと、城之内だった。
それが分かっても俺は握ってた手を離したりしなかった。
もっと、もっと強く!と掴んだ手に力を込めると、柄にもなく涙が出そうになる。
見慣れたはずの学生服で、ちょっと照れくさそうに、でも嬉しそうに笑っていた。その顔を見て、自分の身体が透けて消えてしまいそうな気がした。夢が覚める、と思った。目が醒めたこれから先の俺の未来にこいつはいない。燃える炎を押しつけられたみたいに胸が熱くなって困った。忌々しい。これじゃあまるで。
「何で泣くんだよ」
困ったみたいに笑った顔が酷く優しかった。
わかっていたさ。
モクバがいなくなってからもずっと、俺がひとりぼっちの暗闇で迷うことがなかったのは、おまえが俺の手を掴みながら、小さな灯りをいつでも手にしていたからだ。
朧で頼りないけれど、その灯りを見ていると、不思議と胸が温かかった。自分が暗闇の世界にいることを、その光りだけが否定してくれてたんだ。
大丈夫。
俺は自分の中の狂気に自分を易々と明け渡したりはしない。
この灯りを失わない限り、自分をなくしたりはしないから。
いつも心の底ではそう思っていた。
本当にギリギリのところで俺を正気に戻らせる。あの灯りの正体が伸ばされたこの手だった。だから本当は、あれが誰の手なのか最初から分かってたんだ。
暗闇に明かり射す方向から笑顔で手を差し出しているのは、何時だって辛抱強く俺を愛そうとした、あの金髪のバカ面だ。
* * *
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