甘い手
act.11

 

―――――――― そう思った瞬間、目が覚めた。
「もうそろそろ空港に着きます。」
後部座席で眠っていた俺が起きたことに気づいた助手席の男がそう声を掛けてくる。ああ、そうか。空港に向かう車の中で眠っていたんだ。

 だから目覚めてすぐに目にした掌は空っぽで、あんなに強く掴んだはずの城之内の手はどこにもなかった。
  当たり前だ、夢なんだから。
  夢が叶えるための第一歩じゃないか。自分が選んだ選択肢が、間違っているわけがない。海馬コーポレーションの支援事業でアメリカに渡って、向こうの大学で技術者として成功するための最短レースに這い上がるのだ。そのために寝るヒマも惜しんで周到に準備をしてきた。
  全てはおまえの計画通りじゃないか、瀬人。

 なのにこの、喪失感は何だろう。
  自分が半分、どこにいるのかわからないみたいなおかしな気分。感情をかき乱される。悲鳴を上げそうになる。

 なんで。
 
  なんで俺はここから離れなくちゃならないんだ。あいつと別れなくちゃならないんだ。どうしてモクバとの夢を諦めなくちゃならないんだ。
  そんな俺らしくないことをしてまで、したいことがあるというのか。

「どうか、しましたか?」

 男のその言葉が、最後の選択肢となって目の前に立ち塞がる。イエスかノーか、ふたつにひとつの。

 そう思った瞬間、これから自分が出すべき答えは決まっていた。

* * *

 持ってきたボストンバックと紙袋ひとつを片手に提げたまま、空港のロビーを出た。バスを待ってもよかったが、少しでも早く施設に戻りたかったから、歩くことにする。空港からタクシーに乗れば千円札で釣りが出るような距離だ。
  あの恥ずかしい手紙を城之内が読む前に帰りたかった。
  さっさと帰って、寮母からあの手紙を返して貰って、なに食わぬ顔で春休みを楽しもう。明日はモクバに逢いに遠いあの街に行くか。
  真っ白だった手帖の予定を埋めていくように、心に楽しい気持ちを書きこむんだ。置いてきたデッキに気がついた城之内が施設に押しかけてきたら、なにもなかったように忘れただけだと受け取って、いつものように嫌みのひとつでも言ってやろう。

 そう思ったら、少し愉快な気分になってきた。

 どうしてそんな日常の先に、俺の思い描く未来がないなんて決めつけていたんだろう。あの手を振りほどかなければ、なぜ先には進めないと思ったんだろう。

「瀬人!!」

 悲鳴みたいな声がして顔を上げると、空港線の幅広い道路を挟んで向かい側の歩道に見知った姿を見つけた。

 寝起きなのかボサボサの髪に、よれたTシャツと色落ちしたジーンズに、カーキーのエアテックを羽織っている。いっぱいいっぱいの心底不安そうな顔をして俺を見ていた。
  強い視線に、つい目を細めようとした瞬間、ものすごいクラクションが鳴り響く。馬鹿が車道に飛び出したからだ。

 キーッと荒れたブレーキ音が響いて、思わず目をギュッと閉じて肩をすくめる。

 バカヤロー!と叫ぶ声がして、次の瞬間、飛びつくみたいに身体を抱きしめられた。目を開いて、その顔を見るより先に、鼻先で城之内の匂いがした。
「………なんで勝手にどっか行こうとするんだよ!なんでこんなの餞別みたいに置いていくんだよ!なんで俺からもモクバからも逃げようとばっかするんだよ!!」
  きつく抱きしめられた背中に、城之内が握りしめている俺のデッキケースが当たっている。少しタバコの匂いがするエアテックに顔を埋めながら、本当はその声を聞いただけで涙が出そうだったのをグッと堪えた。堪えて必死で顔を作る。平然とした、優雅な顔で笑わなければまるで説得力のない言葉を口にするために。

「来るのが遅い」

 そういって、半泣きの城之内の顔を真っ直ぐに見てから綺麗に笑う。
  取り繕ってるなんて言わせない。おまえなんてグゥの音も出ないくらいに鮮やかに笑ってやる。

 瞬間、俺の首に手を回してきた城之内は、唇を押しつけるみたいなキスをしてきた。

「………っ!」
  こんな往来で、いったいなにを考えてるんだ!

「オレは……!嫌だからなっ!絶対っ!離してなんかやんねー!」
  唇を離した後、熱っぽくそう言って、城之内は俺の頭を抱え込むみたいする。その口調に含まれた感情の重さが愛しくて、少しだけ俺は腕の中で大人しくしてやることにした。
  ふつふつと湧きあがってくる幸福感。苦しかった分だけ甘い。
  本当は、心なんてとっくに感情の嵐に飲まれている。
  俺はポーカーフェイスのまま、高ぶる気持ちを胸に止めるのに可笑しいくらい必死だった。

「もう離せ。ほら、帰るぞ」
  城之内の身体を引きはがすみたいにして少し屈むと、抱きつかれた瞬間に落としていたボストンバックと紙袋を拾い上げた。それを手持ち無沙汰な城之内に押しつけようとすると、城之内が手にしているグシャグシャになった手紙とデッキケースが目に入った。

「………読んだのか?」

 だから空港へ来たにちがいないというのに、それでもそんな風に聞いてしまう。照れくさい。
「アメリカ」
  憎らしい恋敵の名前を口にするみたいに嫉妬いっぱいの目をして城之内が口を開く。
「行かなくていいのか」

 その返事に、もう迷わない。

「行く」
  ハッキリとそう口にした。城之内が言い返す前に言葉を続ける。

「その時はおまえもモクバも連れて行く。嫌がっても無駄だ、俺がそう決めたんだからな」

 そう。それが自分で出した答えだった。遠回りじゃない。そうすることが、一番近道だということが分かった。俺の人生に巻き込んでやる、離してなんかやらない。初めからそうすればよかったんだ。

「………俺に拒否権とかはねぇのかよ」

 顔を赤くして、しどろもどろで城之内はそう言った。
「俺とモクバの夢に、つきあってくれるんだろう?」
  思わず笑みが零しながら、城之内に流し目を送る。モクバと約束したことを、夢物語で終わらせるつもりはない。巨額の富を得る鍵は自分の中にあることを知っているから。その鍵の名前は、”才能”というんだ。

* * *

「なぁ。オレのこと、恋しかった?」

 俺の一歩後ろを、少しの距離を取られるまいという必死さでついてくる城之内がそう聞いてくる。今日の朝、風呂場で別れてから、まだ半日もたっていないのに、そんなことを聞いてくる城之内は、俺が思う以上に俺のことを分かっているのかもしれない。

「そうだな」

 見上げると、枝に鈴なる桜の蕾がふっくらと膨らんでいて、それはまるであと少しで訪れる春を触れ回っているみたいだった。

「…恋しかったぞ?」

 ククク、と喉を振るわせるみたいな笑いが漏れる。今日はリップサービスしすぎだな、と呆れながらもそう言ってやる。思えばどんなにこいつが俺を好きだと言ってきても、それに答えてやったことはなかった。この瞬間が、九年近い年月の内で初めての出来事だった。

「………。」

 返事がないから思わず振り返る。俺を見て城之内はまるでなにか言いかけたみたいに開いた唇を、顔を赤くしてギュッと閉じた。

「なんだ、その沈黙は?」

 思わず口の端に笑みが浮かぶ。そうだ、貴様が眩しいそうに俺をみる表情は嫌いじゃない。
 馬鹿正直なくらい真剣な声で、好きだ、と言うのが聞こえてくるみたいで。

「いくぞ、ほら」

 俺のカバンを持つ反対の手をギュッと掴んで引っぱった。
  いつも差し出されていた手を、今度はちゃんと俺から掴む。なにがあっても、もう離してなんかやらない。おまえが嫌だという日が来ても、俺からは絶対に離さない。決めたのは、今度こそちゃんと俺の意思だ。慌てて握り返す城之内の手に、心に残っていた冷たい欠片が溶けていく。

「あのさぁ」

 俺に引っぱられてるみたいな格好になっていた城之内が、立ち止まってオレを振り返らせる。
「なんだ?」
  今更、逃げ出したいと言っても聞いてやらんぞ?と、思いながら視界に入れた城之内は、まだ片手であの手紙を握りしめたままでいた。
「これ」
  神妙な顔をして、それを俺に突き出してくる。

「オレ。おまえがいなかったら、絶対幸せになんかなれねぇから」

 そして、城之内は俺が掴んだ手は離さずに、器用に手紙を口でくわえて残った片手でピリピリと細かくそれを破いて風にばらまいた。細かい紙片は、まるで一足早く桜の花びらが散るみたいに並木道へ吹き零れていく。
  普段なら、一蹴しそうな甘ったるい言葉が、どうして嬉しいのか今ならちゃんとわかる。それは俺が残した手紙の裏にあった、誰でもないおまえから、一番欲しかったひとこと。
  (幸せに)なんてしおらしいことを書きながら、おまえの口にそう言わせたかったんだな、俺は。
  きっと自分が思っていたよりずっと、俺はこいつのことが好きなんだ。

 俺はもうなにも諦めないし、何も犠牲にしない。
  その上でちゃんと欲しい未来を手に入れてやろう。

―――――――― そう、すべてはここから、まさに始まるのだから。

「まるで貴様の身に起こる不幸は全部俺のせいみたいな言い分だな?」
  もう一度掴み直した手を引っぱる。城之内の掌は、緊張してるみたいに汗ばんでいた。
「おまえのそーゆトコ、超かーわいくねぇー!」
  湿った手が俺の手をギュッと握り返す。

「可愛くなくて結構」
「ホント、素直じゃねーなぁ」

 いつも通りの会話を繰り返しながら、まるで力を溜めこむみたいに蕾を膨らませた桜が房なる桜並木の下を、俺たちは一歩ずつゆっくりと歩いていく。
  この先の道程が平らだなんて思ってない。このままずっと、ずっと並んで歩いていられるのかなんて本当は誰にもわからない。それでも。

 握りしめた手は、もう離さない。

 

the end
2003.5.3 
Text by MAERI.KAWATOH



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