FLOWER OF ROMANCE【asymmetry】/ 05
 
「…瀬人!瀬人!!」
 うとうととした眠りから現実に引き戻され、ほの暗い場所から急に眩しく日の当たる場所へと引っ張り出されたような気分になる。
「…うるさい」
 目を閉じたままで肩に触れる手を振り払おうと藻掻いてみた。
 オレに触るな。近づくな。
「もう起床時間すぎてるぜ!」
 その一言に、バッと起きあがった。
「…なぁんて」
 悪ガキの笑顔だ。城之内がそういう屈託のない顔で、オレが横になった二段ベッドの下段を覗き込んでいる。
 手にしているのは、六時を少し過ぎた表示の目覚まし時計。
「クッ…!」
 その手から、目覚まし時計を奪い取って、腹立たしい笑顔を睨みつけた。
「おはよ」
 頬を触ろうとする手から逃げるように後ずさる。そのまま宙に残る手は自分の手の甲で叩き落とした。
「近づくな」
 苦虫を潰すような顔でそう言っても、城之内には全然通じない。
「相変わらず寝起きは機嫌がわりぃよなぁ。まぁ出かける準備しろよ。外出届は代わりに出して置いてやったから」
「誰が貴様なんかと」
 その先の言葉を、遮るように城之内が口を開く。
「瀬人、今日何の日か覚えてるか?」
 身を乗り出すようにして、ベッドの柵に足を掛けた城之内の身体が近づいてくる。
「はぐらかすな」
「はぐらかしてねぇよ」
 チラリと、壁のカレンダーを見る。今日は7月の第一土曜だから……。
「想いだしたか?」
 7月7日……そうか、もう七夕なのか。
「モクバの」
 誕生日だ。そう、十二才の。
「そう。モクバからのリクエストだせ。兄サマと遊園地に行きたいんだとさ。あっちの両親にはこの前、モクバがウチに電話してきた時に、承諾を貰ってる」
 
 泣き顔が、頭に浮かんだ。
 
「瀬人?」
 城之内の声が、耳を素通りする。
(どうして兄サマ、オレには笑ってくれないの?)
 そう言われたのは、春休みの終わり。久し振りの面会日だったあの日の別れ際、モクバは睫毛に涙の粒をいっぱいためながら、眉を寄せて口を尖らせると弱々しくそう言った。
 オレにはそれに返す言葉なんてなにひとつ浮かんできやしなかった。そんなことはないと言ってやりたくて、必死で笑おうとしたけど、そう思えば思うほど顔が強張った。
 いつの間にかしゃがみ込んで泣き出した弟を、憂鬱な顔のまま抱き上げてその背を撫でてやるくらいしか、不甲斐ない自分にはしてやれることがなかったんだ。
 
「……おまえが行ってやればいい。遊園地でも動物園でも」
 
 いま城之内の顔を見れば、あの日のモクバの顔を思い出しそうで、オレは俯いたままでそう言い放った。
「瀬人」
 構わないでくれ。余計なことをしないでくれ。
 いっそそう言えば楽なんだろうかと思う。そんな甘えた言葉をこいつに言えば、楽になれるのかと。
 そう言うことすら出来ない自分のつまらないプライドに嫌気が差した。
 
* * *
 
 結局、半ば無理矢理城之内に連れられて食事も取らずに施設を出た。
 口も聞かずに城之内の後ろを歩く。忌々しい背中を見ながら、どうしてオレなのかと繰り返し心の中で問いかける。どうしてオレなんかにいつまでも貴様は構うんだ。放っておいてくれればいいじゃないか。
 実際、モクバに会えるような気分でも、遊園地に行くような気分でもなかった。それでも渋々動かす足は、泥の中を泳ぐように重かった。
 
 待ち合わせは、童実野駅から三つ目の大きな駅から直通のバスに乗って出かける遊園地の正面ゲート。
 むこうの養父母がそこまで車で連れてきてくれることになっているのだという。
 モクバの住む町は、童実野駅から電車に乗って三つ先で海際を走る単線に終点にあった。目の前に百八十度全部が海岸線というパノラマの広がる小さな駅。
「やっぱり、いやだ」
 ガラガラの電車の中、城之内に差し出されたサンドイッチを一切れだけ口にして、そう言った。
 向かいあわせに座った城之内の顔が見られなくて、曇り空を背景に流れる街並みを見ながらそう一言だけ。
「モクバ、待ってるぞ」
 責める口調というよりは、宥めるみたいな声で城之内がそう囁く。
「逢いたくない。そんな気分じゃない」
 まだ笑えない。
 このままモクバに逢っても、また泣かせてしまうだけだと思ったら、情けなくて視界が狭まった。
 
 その後、会話の途絶えたまま着いた乗り換えの駅で、オレ達はバスに乗らずにそのまま海沿いに走る単線に乗り換えた。
 駅のホームで、城之内は「そんなにモクバに逢いたくないならもういいから、そのかわり今日はオレにつきあえ」とだけ言った。そんな義理はなかったが、面倒くさくなって嫌だとは言わずにそっぽを向いた。「断りの電話だけ入れてくるから」と公衆電話を探しに行く間に、さっさと施設に戻ってしまおうかとも考えた。
 でも、なにもかもが面倒くさかった。
 ひとり城之内が戻ってくるのを待つ間、誰もいない屋根のないホームのベンチに腰掛けて、灰色に曇る空を見上げた。そういえば七夕は綺麗に晴れた記憶がない。何時だったか、父親がまだ生きていた頃に誕生日に遊園地に行きたがったモクバが、朝起きていて夜中のうちから止まない雨を窓の外に見て、わんわん泣き出した事があったっけな。
 子どもの頃は、誕生日と言えば遊園地だった。仕事の忙しい父親も、その日だけは朝からオレ達の相手をしてくれたものだった。
「電話してきた」
 小走りで戻ってきた城之内が、ベンチに座ったまま空を見上げるオレを見て訝しげな顔をする。
「瀬人?」
 やっぱりこれでいいんだ。
 もういっそ、永遠にモクバには逢わない方がいいのかもしれない。
「…今日は貴様につきあってやる。どこにでも連れて行けばいいさ」
 投げやりにそう言ったオレの手を、城之内が立ち上がらせようとして引っぱった。
「じゃあ海に行きたい。このまま二人で電車に乗って、さ」
 七月だというのに一向に夏らしくならない天候のせいか、冷えたオレの手にいつもより城之内の手はじわりと暖かく感じられた。
 
* * *

03/10/24