こぎつねと猟師

 

 猟師が目が覚めると、昨日まであのこぎつねが眠っていた煎餅布団はもぬけの殻でした。眠る前までは確かにここに横たわっていた筈の、あの小さな生き物は、姿も形もありません。
 だから昨日の晩、こぎつねの身体が月の光にチラチラと瞬いて人の姿になったのも、きっと夢に違いないと猟師は思いました。

「なんだ、やっぱり夢か」
 そう呟くと、少し残念そうにため息をつきました。
 大体、きつねが人に化けるだなんて、そんなことありっこないのです。
「・・・あいつ、あんな身体でどこにいったんだ」
 こぎつねを火縄銃でドーンと撃ったのは、他の誰でもない自分でした。
 弾が貫通した身体は、やっと血が止まったところだったのです。もう3日も水しか口にしていないのに、あのこぎつねは、いったいどこに・・・。
 ただどうしていいか分からずに触れてみた目の前の布団には、期待してた温もりなどあるわけもなく。
 
 そういえば、なにか花の匂いがしたんだ。懐かしい、甘い香りが。
 
 ・・・なんとか自分の記憶を辿ろうとした猟師でしたが、どうしても思い出すことが出来ません。
 あの時、あんなにも強い印象で、月下で触れたこぎつねの身体は甘く薫っていたというのに。
 その薫りを思った瞬間、あのこぎつねが化けた少年の、その青い瞳の色を思い出しました。夏の空のようだと思った、あの澄んだ深い青色を。
 
(でもあれは空じゃない、俺が子供の頃に住んでいた町の海の色だ)
 
 猟師がまだ小さい頃にその母親は病の床に倒れ、そのせいで夫からも三行半を突きつけられました。そしてまだ幼かった猟師は、弱り切った母親とともに母方の里へと戻されたのです。海など見えるはずもない四方を山に囲まれた息苦しいまでに小さな貧しい村に。

 子供の頃で思い出すのは、決まってあの遠い町での出来事でした。ああ、そういえばあの頃は山と海の両方が幼い猟師の遊び場だったのです。
 浜辺では貝を拾い、山では虫や鳥を追い、陽が暮れるまで遊んでいたものでした。毎日がただ楽しくて、幸せで。
 だからかもしれません。子供の頃の記憶を辿るといつも、猟師の心にはほんのりと温かい灯りが灯るようでした。
 
* * *
 
 かたん、と音がして振りかえると、引き戸の前に小さな男の子が立っていました。見れば両手に幾つものアケビの実を抱えています。

「・・・誰だ?迷子か?」

 そういいながら、その子供が迷子などではないことは、猟師もちゃんと分かっていました。
 真っ白い着物にすすき色の帯を締めた、5つ6つくらいの子供です。焦げ茶の髪はきのこみたいに切られていて、前髪で隠れそうなきつい目は、あの昨日見たのと同じ深い青色なのでした。
 昨日と見たのとまるで同じ、子供の髪からのぞいた耳は見まごうことなくこきつねのもので、よく見れば、まふまふっとした尻尾までついています。
 
(随分縮んでしまってるけど、きっとこれは昨日自分が見たヤツに違いない)
 
「・・・なにをじろじろ見てるんだ」
 不愉快だ、といいたげな顔で唇を尖らせると、子供は手にしたアケビをぼけっとしている自分の目の前に置きました。
「俺はもう食べた。これはおまえが食べるがいいさ」
 そういって、子供は昨日こぎつねののために汲んでやった水が入ったコップを手にすると、ごくり、その中身を美味しそうに呑み込みました。
 
「・・・おまえはいったいなんなんだ?」
 
 猟師の口から思わずそんな言葉が漏れます。
 子供はパチパチと目を瞬かせ、コトリ、とコップを元の床の上に置くと、猟師をバカにするように笑うのです。
 
「おまえは知ってるはずだ。忘れてるなら思い出せ」
 
 そして子供はますます不愉快そうに眉を顰め、見た目の歳とは不釣り合いなまでに大人びた口調で猟師への言葉をすらすらと綴りました。
 
「おまえは昔からぐずだから、今も自分で食べるものすらままならないでいるんだろう。だがその食いぶちくらいはこの俺がなんとかしてやる」
 そう言いながらほんの三つ四つほどしかないちいさなあけびを得意げに広げる小さな手が猟師の目の前にありました。それを見ていると、なんだかとても懐かしい気がしてなりません。でもどんな風に言えばいいのか正直分からないのです、ああ、どうにも自分のこの胸が熱く焼け焦げるみたいで。

 そろりと小さな身体に近寄った猟師は、もみじのように小さいその手を、鍋掴みのように大きな自分の手でぎゅっと包みました。
 
 目を丸くして驚いた子供の手はヒヤリと冷たくて、なんだろう、確かになにかを思い出しそうになるというのに、あと一歩のところで不意にあの甘い香りが辺り一面に覆い被さってゆくのです。そしてまるで森に霧が立ちこめるときのように、猟師の記憶を遠ざけてしまうのです。

「なんだ、口もきかないで。腹が減りすぎておかしくなったのか?」
 
 あとすこしで掴めそうなのに、するりと指の隙間から逃げてしまう。
 目にはいるのは白い肌、そして雪色の着物からのぞく細い首。
 猟師は子供が羽織った着物を眺めながら、そういえばこぎつねの腹の毛皮はこんな風に真っ白だったな、と記憶を辿りました。子供の手を握りしめたままの自分の指先に力を込めるのです。
 猟師はゆっくりと小さな背中を抱き寄せて、おそるおそるその白い着物の袂に指を伸ばしました。じっとしてる子供の白い襟をくいっと指で緩めてやると、白い肌の胸元をおそるおそる覗き込みました。左の胸には弾痕としか思えないどす黒い傷口が覗いています。
「・・・くすぐったい」
 むずがるみたいに俯いた子供は、ホオズキのように赤くなった頬をぷぅっとふくらませていました。そしてその小さな手で、猟師にはだけられた袂を寄せると、惨たらしい傷口を慌てて隠そうするのです。
 
          その暗い血溜まりの色こそが、「すべては夢などではない」のだと、猟師に教えているかのようでした。
 
 あのドーンとこぎつねを銃で撃った感触が、生々しく猟師の腕に戻ってきます。
 猟師は自分がおかれている現状がまるで掴めぬまま、茫然と冷たい床に膝をついてへたれこんでいました。
 
 
 
 
まだつづく。