* * *
目が覚めたこぎつねは、すぐに身体の異変に気づきました。
もう辺りはすっかり明るくなっていて、秋晴れの青空に輝く太陽は、そろそろてっぺんにさしかかろうとしています。それでも辺りにあの甘い香りは漂ったままでした。
こぎつねは起きあがろうとしてその動きを止めました。
なぜなら起きあがろうとした自分の手が、足が。
……真っ白にすべすべした人間みたいな肌になっていました。
雪みたいな色の着物に、山吹色の帯をしめているのは自分なのです。一生懸命後ろにあのまふまふとした自慢の尻尾を見つけようとしましたが、どこにもそれは見あたりません。おしりが妙に軽くて変な気持ちだな、と思いました。
こぎつねは、ぺたん、とねぐらにしていた木の根元にしゃがみこんで、切り絵のように影がざわめく木の葉の隙間から、頭上の青い空を眺めました。
昨日、この木はなんていったんだっけな?
たしか、人間にしてやる、と。
大きなこの木は、こぎつねにむかってそういいました。
こぎつねは起きあがると、ぺたぺたと裸足で、たわわと花咲く大木の周りを廻ってみました。くるりと一周して戻ってくると、さっきまでこぎつねが寝ていた場所には、一足の黒い下駄が置いてあります。漆黒の漆塗りに鼻緒は帯と同じ山吹色の絹でできていました。こぎつねは、おそるおそる綺麗に揃えられたその下駄を履いてみます。初めて履く人間の下駄は、足の裏がひんやり冷たくて変な感じでした。
(にんげんの足の裏は俺たちとちがってずいぶん柔らかいから、こんなのを履いてたんだな)
こぎつねはおぼつかない足取りで、ひょこひょこと山の麓にある人里へ下りて行こうと、歩き出します。あの木が言ったとおり、確かにこの姿なら誰にも怪しまれずに弟を捜すことができそうでした。
(おまえの捜している子は、きっと人の住む場所にいるだろうからね。)
あの大切な子は、誰かにんげんに飼われているとでもいうのでしょうか?
確かにどんなにこぎつねが山中を捜してみても、あの子を見つけることはできなかったのです。もしかしたら、麓の村にいるのかもしれない。こぎつねがそう思うのも無理はありませんでした。
* * *
どのくらいの距離を歩いたのでしょうか。
麓の村なんて、めったと降りることなどないのです。
(・・・足がいたい)
指の付け根に鼻緒が擦れてヒリヒリしました。
こぎつねは四つんばいになって歩こうともしましたが、いつもと違って上手くいかなかったのです。仕方なく、立ち止まり立ち止まりしながら、痛い足を引きずるように歩きつづけました。
(あ!)
さわさわと小川が流れる音が聞こえてきました。耳をすましながら、こぎつねがてくてくと歩き続けて、ようやく流れの脇に出たときのことです。
(にんげんだ!)
川岸から遠い深瀬で、にんげんの子供が腰まで身体を水につけたまま、網をくいくいと引っぱっていました。
こぎつねのすぐ側の浅瀬の水面にかかる枝には、魚籠が吊されていています。
枝上で揺れているそれをこぎつねがそぉっと引っぱると、ぱしゃんっ!と音がして魚籠の紐が切れ、そのままこぎつねもドボンと川に落ちました。
「こら!てめぇなにやってんだよ!!」
浅瀬にへたりこむみたいにして、思い切り水を飲んだこぎつねは、ごほごほとむせかえりました。
なにが起こったのか理解できずに、目をギュッと閉じていたこぎつねでした。それでも強く肩を揺すられてその目を見開くと、目の前ににんげんの顔があってビックリです。
「………っ」
こぎつねは声も出ませんでした。
にんげんと話をしたことなどあるはずがありません。川の水でずぶ濡れになった着物が肌にベッタリと張りついて気持ち悪く、その上、急に怒鳴られてどうしていいのか分からなかったのです。
(なんで俺がこんなやつに怒鳴られなくちゃならないんだ?!)
目の前の子供は腰に手を当てて、こぎつねに責めるような目を向けてきました。
「………おまえなぁ。せっかく生け捕った。ウナギがにげちまったじゃねーか。」
そんなの知らない。どうして俺がそんなことで怒られなくちゃならないんだ。こんなところに吊してるほうが悪いんじゃないか。そんなにそれが大切なら、肌身離さず持っていればいいんだ。
「………あ」
足が。
冷たい水が、こぎつねの擦れた足の傷口に染みてきました。
泣きそうな顔をあげると、にんげんの子供と目があいます。子供はこぎつねの顔を見てぎょっとしました。
「………」
たしかになにかを言おうとしたのに、口を開く前に全部忘れてしまったみたいにぽかんとしています。
「いたい」
身体が凍えるみたいでした。震えるみたいな声しかでません。
こぎつねの声にハッとした子供は、慌てて川の流れの中から、冷たくなったこぎつねの身体を抱き上げました。
「あーあ。こんなに足が腫れるまでよく歩いたなぁ、おまえ」
抱いた身体を川岸に降ろした後、子供は丁寧にこぎつねの足の傷を丁寧に調べました。
「それにこんなに濡れちまったら、風邪ひいちまうって。もうすぐ冬が近いんだからさぁ」
こぎつねはにんげんの子供を目の前にして、どうしていいのか勝手が分かりません。
「さむい」
足に触れた子供の手は暖かくて、なぜだかこぎつねは胸が苦しくなりました。
「いたい。さむい」
ぐずるみたいにそういうと、困った顔をした子供が、しょうがねぇなぁと笑います。
「うちで手当てしてやるよ」
そう言うと、子供はしゃがんでその背中をこぎつねに向けました。
「ほら」
こぎつねはどうしていいのか戸惑いました。それでも惹きつけられるみたいに、暖かそうに見えた子供の背中にしがみつくと、子供はこぎつねを負ぶって立ち上がりました。
黄金色の稲穂が垂れる田んぼのあぜ道に、夕陽に照らされながらとぼとぼと歩く子供の影が、細長い影を落とします。
「おまえなまえは?」
こぎつねは自分を負ぶってよろよろ歩く子供にそう聞かれて、どう返事すればいいのか困っていました。
そういえば、もう何年も自分の名前を口にすることなどなかったのです。それは、誰にも会うことがなかったから、誰にも呼ばれることがない名前でした。
そして、名前が思い出せない自分に一番戸惑ったのは、他の誰でもないこぎつね自身なのです。
「なぁ」
優しく話し掛ける声は、なんだかひどく苦手でした。
柔らかく響く言葉は、うっとりするくらい気持ちよかったのに。
こぎつねは子供の背中で眠るふりをすることにして目を閉じました。
「なんだ、寝たのか?」
そう囁く子供の背中は、さっき触れてきた手と同じくらい暖かくて、いつの間にかこぎつねは本当に眠ってしまっていたのでした。