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こぎつねが猟師の家に暮らすようになって一週間ほどたちました。初めの4日は眠り続けていたこぎつねは、もう起きあがって一人で外にも出て行けるようになっていました。
こぎつね、というかその子は人間の子供にしか猟師には見えなかったのですが。
猟師に撃たれて生死を彷徨ったこぎつねは、一瞬、猟師と年が変わらぬ少年の姿になったかと思うと、明くる日には自分の腰ほどしか身の丈がない子供の大きさに背丈も身体も縮んでいました。それでも確かに猟師がつけた銃痕は、生々しくその子供の胸に刻まれているので、目の前の子供があのこぎつねであることは疑いようがなかったのです。
「おまえは知ってるはずだ。忘れてるなら思い出せ」
こぎつねは猟師にそう言いました。忘れているのは猟師自身だと。
しかしどんなに自分の記憶を辿っても、きつねの子供など自分の思い出の中にはいないのです。なのにあのこぎつねから薫る花の匂いは猟師の心をこれでもかというほどに切なくくすぐるのでした。こぎつねが近づいてきて、あの甘い香りを漂わせると、まるで寄せて返す波のように、猟師の記憶は揺さぶられるのです。
「おまえ、親兄弟はいないのか?自分の家に戻らなくて誰も心配しないのか?」
猟師の家にはひと組しか布団がありませんでしたから、夜が更けるとそのなかに潜り込んでくるこぎつねに、猟師はそう聞いたことがありました。
「帰る場所なんかない。誰も待ってやしないさ」
あまりに平気そうな顔でそんなに寂しいことを言うので、小さな身体を猟師はギュウッと抱きしめました。
「………思いだしたのか?」
期待に揺れる瞳で、震える声でそう言われて、猟師は苦笑するしかありません。きっと人違いに違いない。誰かと間違えてコイツはここにいるんだろう。だからそれがちゃんと分かったら、ここからいなくなるんだろうな。
猟師もまたひとりばっちだったので、しばらく暮らすうちにすっかり情が移ってしまったこの小さな生き物が、どこかにいなくなってしまうのは寂しいことだと感じました。
ずっとここにいればいいのに。
「ごめんな。まだ思い出せねぇよ」
猟師は囁くみたいにしてそう言いながら、腕の中のこぎつねのふさふさした尻尾を触りました。
そうすると決まって困ったみたいに頬を赤くするこぎつねがかわいらしかったからです。
「くすぐったい」
そういっていつも顔を隠そうと猟師にしがみついてくるので、ヒンヤリした身体を暖めてやろうと抱きしめる腕に力を込めました。
* * *
毎日、猟師が目覚めると布団の中にこぎつねの姿はありません。いったい何時起きているというのか、猟師が眠たい目を擦りながら土間に出て行くと、戸板の側で丸くなったこぎつねが眠っていて、その近くには明け方に山で取ってきたらしい木の実や果実が置かれているのです。随分山の奥まで行かなければとれないようなものが殆どでした。
眠るこぎつねの手は泥で汚れていて、氷のように冷えています。
「冷てぇのな」
猟師はひとりごとみたいにそう呟くと、小さな身体を抱きかかえて今しがたまで自分が寝ていた布団にこぎつねを寝かせてやりました。
あの月の夜、こぎつねからあんなに強く薫っていた花の香りは、なんだかどんどん薄くなっているような気がします。
こぎつねの重苦しい前髪をあげてやろうと額に手をやった猟師はビックリしました。身体はこんなに冷たいのに、額は焔に触れたみたいに熱かったからでした。
慌てた猟師がこぎつねの着物をはだけると、思った通り、銃の傷口が僅かに開いて膿んでいるのです。冷たい身体のそこだけが、まるで火と噴いているようでした。
「おい」
そう呼んでも、こぎつねの身体はぐったりしたままです。
「おい、大丈夫か」
返事はなく、猟師はひどく不安になりました。
猟師の母親が、そんな風に病床から返事をしなくなって、まだ数ヶ月しかたっていないのです。だから病が治らぬまま息を引き取った母親の身体がどんどん冷たくなっていったあの絶望感を、猟師はまだ少しも忘れていませんでした。
不安に駆られた猟師が小さな身体を揺さぶると、こぎつねはとろんとした目を開いて、確かに猟師の顔を見ました。
青く輝くようにな瞳は焦点が定まってません。
「………熱い」
目を潤ませながらそういうこぎつねの頭を抱き寄せて、猟師は何度もごめんな、と謝りました。
ぐったりとした身体の主は、もう何の返事も返してくれません。小さな吐息が抱きしめた猟師の肩にかかるだけで、もうあの青い瞳も、白い瞼と長い睫毛が隠してしまいました。
このままこのこぎつねまで死んでしまったら、どうすればいいのかと目の前が真っ暗になりました。いつの間にか猟師の心の一番深いところに入りこんだこぎつねを、失ってしまったらと考えると身体から血の気がひいていきました。