こぎつねは、なんだか長い夢をみたような気分で目を覚ましました。
それは、こぎつねが本当にこぎつねだった頃の夢でした。初めてこの猟師にあった頃の夢です。
こぎつねが目を覚ますと、安っぽい布団の中で自分の身体を抱きしめる男の寝顔が目に入りました。汗くさい着物だな、と思いながらもそのかすりの着物にギュッと自分の鼻を押しつけみると、猟師が目覚めそうになったので、慌ててジッとしました。
猟師の暖かい腕の中にいると、なぜかこぎつねはホッとしました。早朝から銃で撃たれた傷がジクジクと痛んで頭はぼぉっとしていましが、それも今は随分ましになっています。少し歩いただけでハァハァとすぐに息が上がってしまうので、今日は山の奥まで木の実を獲りに行くことが出来ませんでした。いつもの半分くらいのキノコやグミの実を手に猟師の家まで戻ったところで、意識を失ったのでした。
(今日こそ、あの葡萄を獲りに行かなきゃならなかったのに)
この村からでは人の足で登るのが難しい山奥の崖に、不思議な葡萄がなる木があるのです。それは昔、猟師が住んでいた遠い山裾近くの森にあったのと同じ葡萄でした。猟師がいま住んでいるこの村に来る途中、こぎつねはまだツヤツヤとしたその葡萄を見つけたのです。毎年毎年、あの山吹色の花が散りかける頃になると、あの葡萄が食べれるようになることをこぎつねは覚えていました。
子供の頃、あの子供にも食べさせてやった葡萄です。
それは最後に山をおりたあの日に、礼だと言って子供に渡した葡萄でした。
* * *
はじめて逢った日からあの花が散るまでの間、毎日ふもとの村に降りていったこぎつねは、あの自分を助けてくれた子供と弟を捜しました。
「おまえの弟ってどんな顔?おまえに似てる?そいつもそんな青空みたな目ぇしてんのか?」
子供にそう聞かれても、こぎつねは思い出せないのです。
弟が、どんなこぎつねだったのか。どんな毛並みで、どんな尻尾で、どんな瞳だったのか、まるで思い出せないのです。
「……黒い髪が肩まであって、俺と同じ目をしてるんだ」
思い出せはしませんでしたが、うすらボンヤリと(たぶん人間の子供だったら、そんな感じだ)とこぎつねは思いました。
「それだけじゃあわかんねぇなぁ」
こまった顔をした子供は、ギュッと握ったこぎつねの手に力を込めました。その暖かい手がすごく好きだとこぎつねは思っていたので、そうされると嬉しくて目を細めました。
こぎつねはこどもに小さな子供がいきそうな場所を村中のあぜ道を歩き回りながら案内されましたが、こぎつねの弟ぎつねが人間の格好をしてるわけもなく、ふたりで村中を捜しても結局弟ぎつね見つけることが出来ませんでした。
そしてあれは最後の日の別れ際のことです。
「じゃあ明日からは隣村まで行ってみようぜ。この村じゅうの子供は見ちゃったろうからさ」
そう言われて、こぎつねは困ってしまいました。
その前の夜、いつも眠りにもどるあの木に咲く山吹色の花は、殆どが散ってしまっていたからです。
魔法がとけてきつねの姿に戻ってしまったら、もう子供はこぎつねのことなどわからなくなってしまうでしょう。こうやって話すことだって出来なくなるのです。
きっと明日の朝には残った花も散ってしまうだろうな、とこぎつねは思っていました。きっと今日が子供に逢える最後の日だろう、と。
だからお別れを言う前に、子供にそんな風に言われてこぎつねは本当に困ってしまいました。
「……明日は、来れない」
泣かないようにしよう、と、目をいっぱいいっぱいに開いて子供を見ながらそう言いました。
「そうなのか?じゃあ明後日。」
優しい顔をされればされるほど、胸がチクチクして困るのです。気がつけば、ポロポロと涙をこぼしていました。
「明後日も来れない。もうここには来れない。」
急に泣き出したこぎつねに子供はビックリすると、オロオロとした手でこぎつねをあやそうと小さな背中を抱きしめてさすってくるのでした。
「どうしたんだよ。どっか痛いのか?」
困ったような声でそう囁かれて、こぎつねは(胸がつぶれそうに痛い)と言うことは出来ませんでした。
「いつでもいいよ。おまえが来るのをずっと待っててやるから。そしたらまた一緒に捜そうな」
そう言われて、こぎつねはあの木に頼んで来年も人の姿にして貰おうと思いました。そしてまたこの子供と一緒に弟を捜そう、と。
まるで甘くて目覚めたくない夢みたいだと思いながら、背中を優しく撫でてくれる子供にギュッとしがみつくと、こぎつねはそのまま声を殺して泣きました。
* * *
あの最後の別れ際、礼だと言ってこぎつねは着物の袂に入れておいた葡萄を子供に渡したのです。
それはこぎつねの住む森にある変わった葡萄で、晩秋になると遠くの街からも人間が探しにくるものでした。その葡萄は色づき始めた頃に食べても酸っぱくて食べれたものではないのですが、その実が乾いてカビかけた頃になるとうんと甘い香りを放ちだすのです。カビかけてシワシワの葡萄の皮を剥いで口に含むと、まるで砂糖菓子みたいに甘くて、食べるたびにこぎつねもウットリしたものでした。名前も知らない葡萄でしたが、人間達がその葡萄がどんなに貴重なものなのか話しているのは聞いたことはあります。
「悪いのは、見た目だけだぞ」
もとからボロボロだった上に子供に抱きしめられたときに少し潰れてしまった葡萄を見て、あからさまに(食えるのなかぁ)という顔をした子供に、こぎつねは顔を真っ赤にしてそう言いました。
「ほんとだ。甘い!」
潰れかけた一粒を口にした子供は笑いながらそう言います。こぎつねがホッとしていると、子供の顔がうんと近づいてきて、ボンヤリしているこぎつねの唇をぺろっと舐めました。
「……大人はさぁ、大事なひとが出来たらこうするんだって。隣のねぇちゃんが言ってた」
顔を真っ赤にしてる子供を見て、なんだかひどく恥ずかしいことをされたような気持ちになって、こぎつねはソワソワしました。そのうちドクドクと心臓が大きい音を立てるので、それを聞かれるまいと、子供からワザと離れました。
「オレ、待ってるからな!ずっと、ずっと待ってるからな!!」
叫ぶ子供の声を背に、こぎつねは息をきらせながらあの山吹色の花咲く寝床へと、走って帰ってゆきました。
陽は沈みかけ、空は赤く染まってこぎつねの背に長く黒い影を落とします。黄金色がざわめくすすきの小道を夢中で走っている最中に、こぎつねはいつのまにか自分が四つ足で駆けていることに気づきました。
こぎつねは自分の茶色の毛並みの足と背中のふさふさした尻尾を確認して、あの山吹色の木がくれた魔法が本当にとけてしまったことを知りました。もう冷たい風にざわめくすすきの中にぺたんと座り込んだこぎつねは、大粒の涙を目にいっぱい溜めて泣きだしました。声に出してワァワァと泣いてみても、もう背中を撫でてくれる優しい手はありません。誰もこぎつねの冷えた身体を暖めてはくれません。
すっかり陽が沈んで一番星が煌めきだした夜空を見ながら、明日からまたひとりぼっちで森で暮らす日々を、初めてこぎつねは寂しいと思ったのです。