猟師はそんな風にしてこぎつねが出て行ったことも知らず、薬を分けて貰うために、神社の社務所に向かっていました。
あの小さな神主になにか手みやげでも持って行ってやろうと家を見回して、先ほどこぎつねと一緒にとってきた葡萄を一房懐に入れました。
「おぉーい」
戸を引いてそう叫ぶと、パタパタと足音がして、あの小さな神主が姿を現します。
「なんだよ。こんな朝早くから」
明るい声で現れた神主は、猟師を見てギョッとした顔をしました。
「どうしたんだよ…真っ青だぜぃ」
そう言われても、それが自分の顔色のことだということに、猟師は気がつきません。
「克也?」
名前を呼ばれてハッとした猟師は、我に返ったような声でこういいました。
「ごめん。貰った薬がなくなっちまってさ…あいつ、熱がひかないんだ」
まるで自分が病人のような顔をしてそういう猟師に、「待ってろよ、すぐに持ってくるから」と神主は薬を取りに奥の部屋へと走っていきます。
社務所の土間で頭を抱えるように座り込んだ猟師は、その拍子に袂に入れっぱなしにしていた葡萄のことを思い出しました。
『…もう葡萄は食べたか?』
そういえばこぎつねはこの葡萄のことを不思議なくらい気にかけていました。
見たところ、収穫時期を逃してしまったのか皮がしおれてお世辞にも美味しそうだとは言いがたい葡萄です。どうしてあんなにもこぎつねがこの葡萄にこだわっていたのかが猟師には分かりません。
「おまたせ。これ、みんな持って行くといいぜ!」
両手いっぱいに薬包みを載せて戻ってきた神主は、土間に座り込んでしなびた葡萄を凝視しました。
「?…モクバ」
そう名前を猟師が呼ぶと、固まっていた神主は、呆然とした声でこういいます。
「なんでおまえが、それを持ってくるんだ…?」
そう言ってまるで咎めるみたいな顔をする小さな神主に、猟師はなんと言えばいいのか思いつきません。
「それは兄サマが探してた葡萄だ。あんなに探しても見つからなかったのに…」
その言葉に、猟師の頭のなかで絡まっていた紐がほどけていくような気持ちになりました。近寄ってきた神主が、猟師の手から葡萄を一粒ちぎって自分の口に実を含んで、いまにも泣きそうな顔をしました。
猟師は、その目さえも隠してしまっている神主の前髪を、おそるおそる掌で掻き上げます。そして現れた瞳の色を見て、息を呑みました。
………それは、あのこぎつねと同じ、夏の空色をした瞳だったのです。
猟師はそれを見て、手元の葡萄の実を一粒ちぎって自分も口にして驚きました。シワを深く刻んだ、見栄えの悪い葡萄でしたが、噛んだ実があまりにも甘かったので、ビックリして目を丸くしたのです。皮を剥くと、その見た目からは思いがけないいい匂いが、ちょっと酒のように触れた舌から熱くなるような熟れた匂いが立ちこめました。
それはあのこぎつねには似合わない大人びた味だな、と思った瞬間、猟師はハッキリとした既視感を感じたのです。そしてスゥっと頭に浮かんできたのは、白い着物から伸びた小さな手でした。
『これは弟が好きだった葡萄なんだ。おまえには特別に食べさせてやる』
つん、と澄ました顔をして、そういった子供の横顔が。
『どうだ?美味いだろう?』
ちょっと心配そうにこっちを伺うようなその顔が。
まるで空からバラバラと霰が降るときのように、音を立てて猟師の記憶が繋がっていきました。子供の頃に一度だけ一緒に秋を過ごした、小さな友達との日々があざやかに記憶のなかで甦ります。
………思い出した………。
「おい!おまえ、兄サマを知ってるのか?怪我してるのって、兄サマなのかよ?!」
そして小さな神主に身体を揺すられて、ようやく猟師は我に返りました。
* * *
猟師が家まで戻る道すがら、並んで走る小さな神主から聞いたのは、こんな話でした。
神主がまだ本当に幼子だった頃、ここよりも遠い町からこの村の秋祭りに兄と一緒に連れられてきたというのです。誰に連れられてきたのか定かではないらしいのですが、どうやら親に置き去りにされてしまったらしく、祭りが終わって翌朝になって、一緒にいたはずの兄ともいつの間にかはぐれてしまい、神主だけがこの神社の境内でわんわん泣いていたのだと言います。
そのまま幼子は、子供のいないこの神社で育てられることになったのですが、育ての親はその奇異な青い目を隠すように、幼子の前髪を切らずに育てたのだと、まるで他人事のように神主は言いました。
あの日、覚えているのはお腹をすかせた自分のために、幼い兄は食べ物を探しに山に入っていき、そのまま帰ってこなかったということだけでした。
そして、ただ生きてさえいれば、いつか逢うことが出来るだろうと、そのことを忘れないように、眠る前には繰り返し繰り返し、おぼろな記憶の兄の顔をなぞったのだと神主は言いました。
「兄サマ!」
やっと逢えるのだという喜びに満ちて猟師の家に飛び込んだ神主は、大きな声でそう叫びました。
ところがシンとした土間には、その元気な声が響くだけでどんな返事も返ってきません。
全力疾走していった神主にやっと追いついた猟師が我が家にたどり着くと、確かにこぎつねを横たわらせたはずの布団はもぬけのからで、土間に置いてあったあの山吹色の下駄も見あたりません。
「…なんで…」
あのこぎつねは、どう無理をしたところで動き回れるような身体ではありませんでした。いまにも命を落としてしまいそうなほどに傷ついた身体を引きずって、いったいどこにいったというのでしょうか。
「探してくる!」
そう言って、猟師は家を出ようとしました。
「待てよ!オレも連れて行けよ!!」
猟師の着物の帯を引っぱって、小さい神主がそう叫びます。
「でも…もしかしたらここにあいつ、戻ってくるかもしれねぇから。だからおまえはここで待っててくれよ。おまえの兄ちゃんは絶対にオレが探して連れ戻すから」
猟師にそう言われても、神主はまだぐずりそうでしたが、小さくとも聡い子供だったので、最後には猟師の言葉に頷きました。
「絶対に連れて帰って来いよな!絶対だぞ!!」
その言い方があのこぎつねと目の前の小さな神主とで被っているように思えて愛おしくて、笑うように目を細めた猟師は、「わかった」とだけ言い残して、こぎつねが消えたであろう山の奥へと向かいました。