「・・・モクバ?」
なにかが零れ続ける音が絶え間なく響いていた。
ああ。雨の音だ。
枕から頭を離せずに、自分を呼ぶ声にそっと目を開けた。
「兄サマ」
不安そうな青い目が自分の顔を覗き込んでいた。背広を脱いだだけで、ネクタイもまだ外していないスーツ姿。
自分の右手をギュッと握っているのは、確かにたった一人の兄だった。
「まだ苦しいか?」
眉を顰めるみたいにしてそう耳元で呟く。オレは左手の甲でまだ半分夢見心地だった目元を擦る。もう何時だろう。兄サマから視線をそらして、枕元の時計を見ると、夜中の一時を回っていた。
「・・・城之内は?」
さっき目が覚めた時は、兄サマじゃなくてアイツがいた筈だ。
「 ヤツならとっくに帰った。」
そう答える兄サマの顔はどことなく険しい。
ケンカしたの?
そう聞きそうになったけど、その原因が自分だったら辛いから止めた。急に熱を出したオレの枕元で、城之内は自分も側に残るといい、兄サマはそれを拒んだに違い。言い争う姿さえ、目に浮かぶようだ。
このところ兄サマは忙しくて学校にも行ってなかった。だから城之内がウチに来るのも久し振りだった。
(明日なら来ても構わない)
そう、たったそれだけを伝える電話を掛ける兄サマの表情を、寝たふりしながら昨日の夜、兄サマの部屋のソファの上で聞いていた。
その冷たいあっさりした口調と、嬉しいんだか悔しいんだかわかんない、まるで兄サマらしくない表情のアンバランスさに、ちょっとオレまでドキドキした。
電話を切った後は全然態度に出さなかったけど、兄サマが今日を楽しみにしてたのは紛れもない事実で。
・・・うん。きっとそれは城之内も同じだ。
それを全部台無しにしてごめんなさいと思うのに、それ以上に、自分の楽しみを犠牲にしてこんな時間まで自分についていてくれた兄の優しさが嬉しくて誇らしかった。
城之内のことが嫌いなワケじゃないけど、やっぱり兄サマはオレだけの兄サマでいてほしい。
そうだ。兄サマに何か話したいことがあったのに。
「兄サマ」
掴まれたままの右手の、兄サマの手の上に自分の左手を重ねた。少しウトウトしかけていた兄サマがハッと顔を上げる。
「・・・どうかしたか?」
ここのところずっとロクに寝てなかったのを知ってる。知ってるから胸が痛むんだ。
「喉が渇いて・・・冷たい水が飲みたい」
ベッドのすぐ側にある窓ガラスにはあんなに潤うように雫が滴っているのに、オレの喉はヒリヒリするくらいカラカラだった。
でもそんなことじゃなくて。
兄サマに教えなきゃいけないのは、そんなことじゃなくて。
「わかった。すぐに戻るからこのまま待っていろ」
兄サマが枕の下にずり落ちてしまっていたアイスノンに気づいて、もう一度拾い上げるとオレの額に押し当てた。
疲労した背中が、それでも優美な動きを残すように扉の向こうに消えていく。
カツン。カツン。
何かが硝子扉を叩く音がした。雨とは違う、もっと鋭利な音。
オレの部屋は一階だから、その大きな硝子扉は、テラスに繋がっていて、そのままそこから庭に降りることも出来た。
カツン。カツン。
(まるでキツツキが嘴で窓を突いてるみたいだ・・・)
眠りの波に揺さぶられながらも、ぼんやりとカーテンが引いたバルコニーの方を見ると、淡い小さな人影が見える。
「?」
それが見えた途端に、急に目が冴えてきて、オレはゆっくりとベッドから身体を起こすと、冷たい床の上に足を降ろした。
(ボクだよ、モクバ!)
ハッキリと、そう聞こえた。
おそるおそる、オレは硝子扉に近づく。
勢いよくカーテンを引っぱると、目に入ったのは夜目にもはっきりと青い色をした蝙蝠傘だった。
「君を迎えに来たんだ」
昼間の少年が、その青い傘を手に、満面の笑顔でそこに立ってる。
確か名前を教えられた。そしてそれを忘れないで欲しいと言われた。そう言われたのに、喉まで出かかってる名前が出てこない。もう少しというところでひっかかってる小骨の骨みたいに。
「モクバ」
穏やかな声が、不思議と雨の音にかき消されることなく辺りに響いた。
兄サマとよく似た顔立ちに淡いグリーンの髪。ただ、確かに昼間、綺麗なエメラルドグリーンだと思った瞳の色は、なぜか兄サマと同じルリミツユビカワセミの青色に変わっていた。
「 乃亜?」
そうだ。それが彼の名前。昼間そう聞いた筈なのに、どうして忘れてたんだろう 。