モクバを部屋に残して、使用人達も寝静まったキッチンに向かった。家政婦の誰かが気を利かせて出しておいたのだろう、すぐに目につく場所に硝子製の水差しとグラスが置いてあった。
その水差しによく冷えたミネラルウォーターを注ぐ。まだ熱がひかない唇に含ませてやったら喜ぶだろうと、氷を少しグラスに入れた。
朝までに少し熱も下がるといいが・・・。
(子供なんてすぐ熱出すんだよ。そんなにオロオロすんなって)
高速渋滞に巻き込まれて、まるで進まない車の中で運転手を罵倒しながら、やっとの思いで帰ってきたオレに向かってそう言った城之内に、ついついカッとなって手近なソファにあったクッションを思い切り投げつけた。
(・・・オマエなぁ)
呆れた顔をしてオレを見るのが癪にさわった。カッと熱いものが胸にこみ上げる。
「うるさいッ!もういい!!出て行けッ!」
確かに余裕がなかったのは自分だった。
だからといって、自分が帰るまでの間、ずっとモクバを看ていてくれた彼に対してあの態度はないだろう、と今なら思うのに。
(わかった)
そう言って軽いため息をついて、城之内はそのまま部屋を出て行ってしまった なんだか妙に苦いものがしこりみたいに胸に残った。
「・・・どうしていつもこうなんだろうな」
苛立ち半分にそう思いながら、まるで重度の喫煙者がタバコを捜すような仕草でシャツの胸ポケットから薄い折りたたみの携帯電話を取り出す。どうしても今すぐに声が聞きたかった。そのためならコチラから謝るのも癪じゃない気がするくらいに。
・・・ルルルルル・ルルルルル・ルルルルル・・・
受話器の向こうからは、いつまでたっても冷たい呼び出し音しか聞こえてこない。それでも何故か、もうすぐあの呆れるくらい明るい声が聞けるような気がして、その音をしばらく聞き続けていた。
だか、手元に置いたグラスの中の氷が溶けかけてるのが視界に入って、ため息をつきながらパタンと携帯を折りたたんで元のポケットに押し込んだ。
* * *
「モクバ?」
部屋の扉を開いた瞬間、嫌な予感が背筋を過ぎっていった。
「・・・モクバ?」
ザァーッと降り止まない雨の音が部屋に響き渡っている。
今入って来たドアの真向かいにある、テラスに続く硝子扉が大きく開かれて、雨風に白いカーテンがバタバタとはためいていた。
ベッドの上に、いるはずの弟の姿はない。
「・・・モクバ!どこにいる?!」
おかしな胸騒ぎが鳴りやまない。頭にカッと血が上っている。
おかしい。
モクバはあんな状態でこんな雨の中、一人でいなくなったりするはずがない。
「モクバッ!モクバーッ!!」
今にして思えば、これがあのうんざりするくらい長い夜のはじまりだった。