サイエンスの幽霊
act.4

* * *
 
「ねぇドコまで行くの?」
 裸足のままで、外に出ていた。熱でフラフラしてるのに、不思議と意識はハッキリしてる。雨に濡れてぬかるむ芝が冷たくて気持ちいいなんて、どうかしてる。
「もうすぐだよ」
 眩しい声で、乃亜がそう答えた。
 オレ達は青い傘の柄を二人で握って歩いていた。時折触れる乃亜の手は、暖かくも冷たくもなかった。まるで自分の手にぶつかったみたいだ。
 どうして真夜中なのにこの庭はこんなに明るいんだろう。まるで暗闇に幾つも浮かんだ光の雪洞(ぼんぼり)を囲むように、沢山の蛍が飛び回っているカンジ。大きな光や小さな光が、薄い青色を滲ませるみたいに、真っ直ぐと庭の一番奥の森へと道をつくる。
 よく見れば、蛍みたいだと思っていたのは雨粒だった。大きな雨粒が、地面に零れずにゆらゆらと光りながら辺りを彷徨っている。
 
「すごく綺麗だ」
 思わずそう言うと、隣を歩いていた乃亜が、クスッと笑った。
「もうすぐだよ」
 そう言って、ぴたっとその場に立ち止まる。
「乃亜?」
 憶えたての名前を、まるで生まれた時から知ってるみたいな声で口にした。
 
       ほら、憶えてる?」
 
 入りこんだ森の奥深くに、まるでステージみたいに明るく光る場所があった。
 目の前に現れた光景に、オレは思わず足を竦ませてしまった。
 
* * *
 
 明るく光る場所に、フッと兄サマが現れた。
 白い学生服に、今より幼い風貌。
「兄サマ!」
 オレはビックリして思わず声を上げた。
 
(モクバ!)
 
 叫ぶ声と共に、兄サマの前に昔のオレが現れる。
 そんな苛立った憎しみに満ちた声で、兄サマに自分の名を呼ばれたのはたった一度だけ。
 その瞬間、ズン、と重たくて冷たいものが胃の中に沈むのがわかった。
 なんで?
 
(どこまでオレの足を引っぱれば気が済むんだ!)
 
 声を荒げた兄サマが手のひらを振りかざす。びりびりと感情の全部を引き裂かれそうになる。それまで見たことがなかった兄サマのあんな冷たい目。いつも他人にしか向けられることがなかった、あの凍えた表情。
 
             これはオレの人生で一番辛かった時間だ。
 
 義父・海馬剛三郎が兄サマに与えた最終試験。
 一年というタイムリミットで、兄サマは与えられた資金を元手に、ビジネスで巨額の富を築くことを要求された。だけど兄サマはそのマネーゲームにおいて義父の予想を遙かに超えた手腕を発揮すると、その試験以上の高さのハードルを越えようとした。
 社内で社長に反感を持つ重役連中を懐柔して利用し、海馬コーポレーションの株を集め、その経営トップの座から義父を引きずり降ろすことを企てたのだ。
 
「兄サマ!信じてくれ。オレじゃあない!」
 まるで無意味に、目の前の光景に向かってそう叫ぶ声は届かない。
 
 あの時、その計画はどこからか義父に漏れた。
 兄サマの計画に不備はなかった。情報戦における全ての穴はあますことなくふさがれた筈だった。社内において、その計画が漏れる術はなかった。
 
 だからあの時・・・          兄サマはオレを疑ったんだ。
 
* * *
 
(だまれ)
 
 あの時、床に座り込んで、見上げた兄サマの顔を随分長い間、忘れることが出来なかった。
 そのままオレは雨に濡れた地面の上に、あの時みたいに座り込んでしまった。
 
(そいつを放り出せ)
 
 その言葉と共に、オレは兄サマの部屋から兄サマの部下に腕をひかれるようにして追い出されたんだ。
 
「兄サマ!!」
 
 そう叫ぶ声とともに、目の前の明るいステージは、もとの暗闇に溶けていく。
 
 ・・・違うのに、オレじゃないのに、って、あの時も心が悲鳴を上げた。
 
 気がつくとぽろぽろと涙をこぼしていた。
 これは何かのまやかしなのに。
 こんなに心がしぼんでしまったら、立ち上がることさえ出来ない。
 
「モクバ」
 
 そう呼ぶ柔らい声に顔を上げると、乃亜が優しくオレの髪を撫でてくれていた。その手をどこかで記憶してる。他の誰にも似てない優雅な動き。
 
         あの時の頃、あれ以来、初めて思い出している気がした。
 

* * *