次の日からは完全なオフに入った。
よほどの一大事でもない限り、仕事の電話も入ってこない。こんな風にまとまった自由は社長に就任してから、あの空白の半年間を除けば初めてのことかもしれなかった。世界を股に掛けて動いていれば、知らない間に盆も正月もなくなってしまう。
思えば豚が生きていた頃は、あの屈辱と束縛を代償に、多少の時間が自分にはあった。だが三年以上前、それを全部費やして作り上げたバーチャルリアリティー具現化システムさえも、あの男は某国の軍事シュミレーターなんぞに利用した。軍事産業に俺の魂は容易く売り渡されたのだ。
そうだ、近頃は一度傾いた事業再建に力を入れるあまり、自分自身が一番力を入れたい開発の方へは時間もほとんど割けず、自社の研究員が書いたもの以外、主だった論文にも目を通すことが出来ずに埃を被らせていた。英文で専門用語が入り交じったそれは、いくつかの辞書がなければ正しく読み進むのは困難で、移動の片手間に読むわけにもいかないからだ。
そういったものを全部片づけて、新しいゲームシステムの構想に入りたいから、せっかくの休みくらい旅行でもといってきたモクバの言葉も退けた。
予想外の邪魔者はいるが、自室に閉じこもっていれば、めったと顔を合わすこともないだろう。モクバが妙になついていることは引っかかったが、この一週間だけのことだ。名前を明かすことはしないと言い出したのはモクバだし、後々引きずるようならそのとき強引な手段に出ればいい。
朝食を食べるためにダイニングルームに向かうと、そこには予期しない男の姿があった。
食事は別に摂らせるんだと思っていたから、少し戸惑う。まぁ相手には何も見えてはいないのだから、過度に気にする必要もないというのに。
運ばれてきたスクランブルエッグとサラダ。それに焼きたてのクロワッサン。いつも通り食べ始めてふと気がつくと、目の前の城之内が困ったようにソワソワしている。
ああ、そうか何が目の前に並んでいるのかわからないのか。
一応客として迎えている者を当主として放っておく訳にもいかず、仕方なく机の上に置かれたベルで人を呼ぶ。
「いかがなさいました?」
颯爽と姿を現したアパー・テンがそう聞いた。
「お客人が食事でお困りのようだ。なにか手でつまめるようなものを用意してくれ」
そう言うと、気にせずに食事をしていたモクバがあっ!という顔をする。
「ごめん!オレ、気がつかなかった!」
その声に、照れたみたいに城之内が首を振る。
「や、ごめん!フツーの家メシだったら茶碗持てば何とかなると思ったんだけど…違うからさー」
はは、と笑いながらそう言った。
そういえば一昨日は帰宅するの自体が遅くなったし、昨日は俺もモクバも取引先と懇親会が急に入って夜は屋敷で食事をとらなかったのだ。こいつの食事はシェフに用意させたはずだから、初めて食事を同席するこっちには状況が把握できなかったのだ。
あっという間に下げられた城之内の皿の中身は、クロワッサンの玉子サンドとカップスープに姿を変えて現れた。
「ちゃんと食える?オレ、手伝ってやろうか?」
自分の食事を中断して、一生懸命そう話しかけるモクバに笑いながら、平気平気、サンキューな、と手をひらつかせた。
「…なんかさー」
何とかサンドイッチを食べ終わって、食後のコーヒーを飲んでいると、城之内が静かさに耐えきれなくなったように喋り出す。
「目が見えないと、喰うものの味まで変わるって、昔、妹が言ってたんだけど本当なんだなー」
「ご兄妹、ですか?」
照れくさそうに話すのは、かわいい妹のことだからか。この芝居じみた喋りも割と苦痛になってきたな、と思いながら話の流れ的にそう聞いた。
「おう。まだ中学生なんだけど、すっげー可愛いんだ。ちっさい頃から目が悪くてさぁ、そういえば昔はよく飯喰わせてやったりしたなぁ。あんまりかまうからオフクロによく叱られたんだ。”静香が一人でなにも出来なくなるでしょう”って」
一人で饒舌に話しながら、一人で照れ笑いする。相変わらず忙しいヤツだ。半年ほど見なかったところで、そういった所は変わりようもないらしい。
「仲がよくて羨ましい。いいお兄さんですね」
これもモクバのためだ。俺とこいつがいざこざになれば、傷つくのはこの小さな弟だからな。ならば数日のことくらい我慢が出来よう。
「それではボクは勉強がありますから…」
そう言って席を立つ。
「あ、兄サマ…」
まだクロワッサンをほおばりながらモクバが口を開いた。
「食べながら話すのはマナー違反だ。あんまりお客様を困らせないようにしないとだめだぞ。」
昨日もモクバは空いている時間は城之内にべったりだったという話を耳にしていた。こんな馬鹿にあまり近づくんじゃない、そういう冷ややかな牽制を込めて口にした言葉だった。