青天の霹靂
act.10


「なぁ、モクバが登ってた木って、もしかして桜?」
  潜めるような声で、城之内がそう聞いた。

「…どうしてわかる?」
  見えないはずの目に、もうすぐ咲く花の蕾が見えるわけでもなく、なのにそれを当てたことが不思議でそう聞き返した。
「なんか、匂いがしたから。桜餅みたいな匂い?」
 
  あまりにらしい答えに、おもわず吹き出した。
「笑うなよなー」
  ちゃんと当てたんだから、と城之内は子供みたいに口を尖らせる。

「こんな季節に目が見えないなんて、すっげーツイてない。あーあ。桜、好きなんだ。俺」

 そういって窓から離れた城之内は、俺の寝室にあるこぢんまりとしたソファーに横になった。
  この部屋に他人を入れたことなんて今までたったの一度もない。
  最後だから、言っておきたいことがある、と夜分にドアを叩いたのはこの男だった。

「―――――――安心しろ。明日には、全部元通りだ」

 そう言って、自分の横に座った城之内の目を覆う包帯をそっと撫でた。
「…何?」
  囁くような言葉を聞きながら、城之内は触れたまま離せなくなった俺の手首を掴む。
「担当医から連絡を受けている。明日この眼帯を外せるんだろう?…そうすれば貴様は元の生活に戻るんだ。その狭い団地の四畳半とやらにな」
  掴まれた手がわずかに震えているのが自分でも分かった。
「あのさ…」
  掴まれた手首が動かされて、手首の内側に城之内がいきなり唇を押しつけた。
「脈拍、すげぇ早いのな」
  そう囁くみたいにした声と一緒に、手首の皮膚が薄い部分に吐息がかかる。
「最後に名前くらい、教えてくれねぇの…?」

 よかった。
  こいつの目が見えなくて本当によかった。
  心からそう思う。どんなに情けない顔をしても、知られずに済むのだから。

「…教えない。最初にそう言っただろう?」
  掴まれて唇を押し当てられたままでいる左手を振り払いたいのに動けなかった。そう答えるので精一杯だった。

「好きだ」

 その言葉に驚いて、身を引こうとしたら足が絡まって転倒した。ソファーの後ろのテーブルに背中をぶつける、と思った瞬間に腰に腕を回される。

 声も、出なかった。
 
  さっき手首に触れていたのと同じ体温が、今度は震える唇を塞いでいる。
「…ァ」
  息を継がせてもくれないような、そういうキスに戸惑う。ちろりと出した舌が俺の下唇を味見するみたいに舐めた。見えないくせに。見えてないくせに。欲しがられてる、と、勘違いするような唇の動きを俺に見せつける。

 ソファーに横たわっていた城之内に、覆い被さる格好で抱きしめられていた。

 本当にコイツは見えてないんだろうか?全部ウソなんじゃないのか?
「離せ」
  力なく城之内の肩を押して起きあがろうとした。
「ヤだ」
  唇が。
  喉に押しつけられる。
  背中に回した手が下がって、スラックスからワイシャツを引きずり出した。すぐに背骨を大きな手のひらで沿うように撫でられた。乾いた皮膚が自分の冷や汗を吸い取るような錯覚をする。
「もう逢えないんだろ?明日になったらオレは、おまえの前から消されるんだろ?」
  背筋を首まで撫でた手が、まさぐるみたいにして今度は脇下をくぐって胸を撫でる。
  尖った先を探し当てると、ギュッとつまんできた。
「…や…」
  俺がその手を払いのけるよりも先に、今度は城之内がワイシャツの上からそこを噛む。 

「…男がいいのか、貴様は。」
  声が上擦りそうになる。
  不躾な長い指先が、大きな手のひらが、外したベルトをスラックスから抜き取った。
「違う。それ、わかってて言ってるだろ?」
  顎が掴まれて、薄く開いてしまう口の隙間からまたあの舌が入り込む。チロチロと見せつけるみたいにしながら俺の唇の上下をぐるりと舐めた。
「こんな場所は嫌だ」
  スラックスの上から俺の股間を撫でる手を強く握りしめる。
「?」
  首をかしげるようにした城之内をそのまま引っ張るようにソファーから立ち上がらせた。
「…こっちに来い」
  身体が火照る。鼓動が早い。
  落ち着け。こいつのペースに巻き込まれるな。俺らしくもない…しっかりしろ!

 さっきまで、まるで見えているかのように俺の身体に触れた男は、手をひいて歩き出せばやはり不安な足取りで俺が掴んだ左手に、もう一方の手も重ね合わせてきた。
「おい、あんま速く歩くなって!」
  フラフラと重心が定まらないような足取りに、巻き込まれてもたまらないので、速度を落としてたどり着いたベッドの上に腰掛けた。
「…いいのかよ?」
  不安そうな口元。俺の手を包みこむ暖かい両手。
「最後だからな」
  自分で言った言葉に傷つきそうになる。バカらしい。本当にバカみたいだ。
  城之内が、両手で包むように掴んでいた俺の手を解放する。かわりに伸びてきた手に、顔の輪郭をなぞられた。無遠慮に、俺の顔の形を確かめるみたいに触る。暖かい、乾いた手。
  耳の形を丸く辿って、こめかみに指を差し入れて前髪を掻き上げた。ぱらぱらと零れた幾筋を、もう一度持ち上げて額に唇を押し当てた。そのまま、ゆっくりと降りるように鼻の頭を舐めて、唇に舌を割り込ませる。
「…ふ…」
  しつこいくらいに舌を追われてまた顔が火照りだす。
「なぁ。いまどんな顔してんの?」
  下衆な台詞を、まるで時間でも訊くみたいに平然と口にしてくる。
  ワイシャツの釦が上手く外せないのか、裾から入れた手で胸の尖りを摘まれた。
「…ァ、やっ…」
  先に爪を立てて擽られて首を横に振る。ネクタイを緩めもしてないせいか息苦しさが残った。押しつけられたシーツとワイシャツがザワザワと擦れる感触に身体が震える。
  不躾に肌をまさぐるような手が奇妙に高い体温を注いでいく。手当たり次第、身体のそこかしこに擦ったマッチの火を放たれたみたいだ。
「…喰っちまうぞ」
  独り言みたいにそう言った城之内の目を隠すように巻かれた白い包帯にそっと触れる。
  これが見えていれば、こんなことにはならなかった。
  昨日の夜にこいつが言った『見えない目でオマエを見てるんだ』という言葉を思い出す。見えない目?それはこの執拗に布を巻かれて隠されたあの茶色い瞳のことなのか。それとももっと抽象的で曖昧な?

 貴様の見えない目に映るのは、一体どんな俺だと言うのだろう。

 ワイシャツを胸元まで捲り上げて唇で愛撫していた城之内が、鼻先を肌に押しつけるみたいにして舐めあげたあと、唾を飲み込む音をたてる。
「…っ。涎を垂らすような美味いものでもない、だ、ろう…?」
  黒いシーツの上に投げ出した身体の、どこにも力をいれないように、できることなら人形のようになりたかった。触れられて、感じてしまえば、情が湧くから。心が揺すぶられるから。
「美味いよ」
  がさつな動きで唇を探り当てた指先が、その割れ目に人差し指を入れて噛みあう歯列をこじあける。意識的に歯を立てると親指も入られた。二本の指で押し広げられた唇に、城之内が自分の舌を差し入れてくる。俺の舌の裏を奥から舐めるみたいにして、その先を自分の舌で擽った。目隠ししてもわかる。城之内がうっとりした顔で意地の悪い笑みを浮かべる。
「っ。ぐふっ…あ…」
  指は抜かれたが、城之内の舌先が喉の奥に届くように錯覚して、噎せるみたいに咳き込んだ。
  急に俺の身体に身を乗り上げていた城之内が起きあがる。
「…城之内?」
  嘔吐いた不快感に涙目で名前を呼んだ。仰向けに転がされた俺の腰を触っていたかと思うと、既にベルトが抜かれたスラックスのファスナーを探り当てて、ビッと引き下ろした。
  背中に回された手のひらが、下着に入ってきて俺の尻を掴む。
「なっ…!」
  予期せぬ場所に唾液で濡れた指を押し当てた。羞恥に思わず悲鳴を上げた。
「いやだっ!バカ!離せ!」
  触れながら下着と一緒に後ろから毟るみたいに衣服を脱がされる。城之内を押し返そうと肩を押すのに全然力が入らない。
「あんま暴れんなって。…勇気を失くすからさ」
  勇気?それは男に触る勇気か?それとも俺に触れる勇気か?
「こんなはずじゃなかったんだ」
  脱がされた服が、バラリと投げ捨てられた。黒いシーツの上で、ワイシャツにネクタイを締めたままの自分が、足と性器を晒して包帯男に組み敷かれている情景はひどく滑稽だ。後ろから指を離して、膝裏を掴んだ城之内が、股間に顔を埋める。

 もうそこから先は声すら出なかった。

 城之内が股間で反り返る俺のものに唇を寄せようとしていた。戦慄くそれの位置が分からずに、探す鼻先がぶつかる。
「やっ…!」
  ギュッと目を閉じて、何とか喉から絞り出すようにあげた悲鳴。
  それだけでどうかなりそうだったのに、掴んだ脚を左右に開いて伸ばした舌で舐め上げた。
  背中に冷たい汗が走る。
「オレの顔、見える?」
  笑いを含んでそう言う言葉の意味が理解できなかった。どこをどんな風にされてるのかも目を閉じてしまったからちゃんとは分からない。分かりたくないのに。でも嫌悪ではない何かが這い上がってくる。
  舌が、ゆるゆると己を舐める感触に耐えていて、その先を擽られてやっと気がついた。

――――――― オレの顔見える?

 顔どころか足の先まで羞恥で赤く染まった。
  思わず目を開くと、俺の脚の間に顔を埋めた城之内の金色の髪とつむじが目にはいる。
  同じなのだ。
  さっきのキス。抵抗できない口の中で舌を辿る軌跡。あの意地の悪い笑みがフラッシュバックする。

 見えなくても見えた、あの碌なことを口にしない笑った唇の形が。


***