目を覚ますと、隣には誰もいなかった。
「?」
そんなわけはないのに、と不思議に思って俯せに眠っていた気怠い身体を起こすと、城之内は、昨日着ていたパーカーにジーンズといった姿で床の上に丸くなって眠っていた。
タオルの一つもかけないで、まだ春先のこんな気温でこのまま朝を迎えたら、間違いなく風邪をひくような格好だ。まだ桜も咲かない3月の半ば。城之内はベッドから落ちたわけではなく、初めからそこを寝床に選んだ証拠に、ソファーから持ってきたらしいクッションを枕代わりにしている。俺は結局最後までワイシャツとネクタイは着たままで、そのまま寝ていたせいか肩まで痛い。ため息をつきながら自分でネクタイを緩めてシュッと解いた。皺だらけのワイシャツから袖を抜いて、とりあえずシャワーを浴びようと思った。まだカーテン越しの窓に朝日が差し込む気配はない。
『こんな季節に目が見えないなんて、すっげーツイてない。あーあ。桜、好きなんだ。オレ』
そういえばそんなことを言っていたな、と思う。
床に転がる男の表情は見えない。もとから顔の半分は包帯で隠されているのだ。
今日病院に行けばその包帯も外され、こいつは元の場所に帰っていくのだろう。きっと誰もがそうなのだ。非日常的な光景は、永遠に続かないからこそ、そんな字をあてる。日常に非ず、と。
「…ふん」
脱いだばかりのワイシャツを、床に転がる犬の上に落とした。全裸でバスルームに向かいかけて、通り過ぎようとした窓の外に何かの気配を感じる。
「?」
訝しく感じながら、刺繍の重いカーテンを指先でほんの少し開いた。
窓の外で丸い月の光を浴びて窓の正面にある古い桜の木は、昨日まで堅かった蕾を一斉に花開かせていた。
***
「兄サマ?」
一週間ぶりの出社だったが、別段変わることもなく朝から通常業務をこなす。承認印を出さなければいけない書類に目を通して判を押し、ひっかかるものがある報告書は担当者を呼び出し、午後から本社での役員会議が終わった後、誰もいなくなった会議室から窓の外を見下ろしていると、磯野と一緒に出て行ったはずがいつの間に戻ってきたのか、モクバが訝しげな顔で俺を呼ぶ。
「どうかしたのか?」
振り返るとモクバは茶封筒を手にその声と同じく不安げな表情でそこに立っていた。
「これ、城之内を送っていったSPが届けてくれた。最後の診察結果」
その名前に、思わず動揺した。
俺のシャツを毛布代わりに床に寝転がっていた、あの金髪が瞼に浮かぶ。
「…あのバカは帰ったのか?」
聡い子供にこの不安定な心を見せないように不機嫌を装ってそう訊いた。
「城之内?うん。タクシーを用意してやってたんだけど、歩いて帰るって行っちゃったらしい」
そういえばあの病院の向かいは大きな公園があったな。確かこの町の桜の名所だから、軽やかな足取りでほの白い花咲く中に消えていく、その後ろ姿が目に浮かぶようだった。
「それ、渡してくれたSPがね。城之内から、兄サマに伝言預かったって」
さして興味ない顔でめくる報告書。瞼についた疵も、眼球のダメージもほぼ回復してる。これなら目に見えて痕が残ることもないだろう。
……なのに心がこんなにも安まらないのはなぜなのか。気持ちがざわついたまま、どこにも行けずに立ち止まれもせずに同じ所をぐるぐる回っているのが分かる。
「伝言?」
聞きたくないような気がした。
まだどんな別れの言葉も耳にしたくはなかった。始まる前に終わってしまった感情に波を立てたくなどはない。
「”ありがとう。忘れないからと伝えてください”って。…兄サマ?」
窓下の風景から目が離せなかった。
”忘れない”というのは言い換えてみれば、もうヤツの中で俺は終わってしまったものだということだろう。
区切られた境界線の向こう側だからこそ、投げつけることが出来る言葉だ。
俺は忘れてやる。何一つ憶えていてなんかやるものか。
そう口に出そうとして、不安げな顔のモクバに顔を覗かれてハッとする。
「兄サマ?」
怒りで歪みそうになる顔から、感情を消した。一度目を閉じて、開いたらいつもの俺に戻る。戻れる。
「うるさいのもいなくなったことだし、おまえも今日は早く屋敷に帰って休むといい」
見上げる不安げな顔から自分の表情を隠すみたいに、弟の頭を撫でた。