青天の霹靂
act.12


  モクバを見送り海馬ランドの工事現場の視察に出かけて帰社した後、アトラクションの企画担当者から設計の進行状況に関する報告を受け、午前中のうちに米国支社から配信されてきた今期の米国会計基準での連結決算と連結純利益に目を通した。それから再度役員会を招集し、社長室を出たのはもう夕方近くだった。

「どうした?」

 後部座席で書類をめくりながら、屋敷の門にたどり着いても先に進もうとしないことを不審に思い、運転手に声をかける。
「あっ、いえ…」
  助手席の座席越しに軽く身を乗り出すと、フロントグラスの向こうに立っていた男と目があった。
「よぉ」

 言葉に詰まる。
  城之内は左眼にだけ眼帯を残して、茶色い右目で俺をじっとみつめてきた。

 一週間前、城之内は俺の声に気づかなかった。だが、今はそうはいかないだろう。朝まで同じベッドにいた相手の声を、さすがに忘れているとは思いづらかった。
  いや、ちがう。
  忘れられていると、思いたくないのだ。

「なに?返事もしてくれねぇの?」
  そう言って、城之内が窓から伸ばした手でロックを外すと、俺が座るのと反対側の後部座席のドアを開けた。
  その瞬間、俺は自分が背にしていたドアを開いて車から降りる。そのまま、開かれていた門の中へと走り出した。

「海馬!!」
  耳の中でその声がこだまする。
  逃げないと。逃げないと。
  ああ、クソッ!
  何かの衝動に駆られるようにスーツ姿で走り出す。自分の屋敷の庭がずいぶん広く感じる。そういえばここを走るだなんてどのくらいぶりだろう。ばからしい。凡骨ごときから、どうして逃げなければならないのか?

 それでも。
  気づかれたくなかった。がっかりした顔で見られたくなかった。
  腹立たしい。
  クソッ!どうして俺がこんな想いをしなくちゃならないんだ!

 深く深く、林へと続く裏庭を走る。せめて陽が落ちていればよかったのに。視界を朱く染める光に向かって走るから、夕陽が長い影を伸ばして、城之内の追跡を容易くする。

「海馬!」

 それでも声がずいぶん遠くなった。
  片眼のハンデが普段よりヤツの足を重くしてるのだろう。どんどん走れば俺を呼ぶ声は同じだけ遠ざかる。それでも声は消えなかった。遠くから、離れるように近づくように聞こえてくる。
  脚が絡まりそうだ。こんなに走るのは本当に久しぶりだった。立ち止まれないという強い想いだけで動いている。
  途中から、足を進める度にパキパキと小枝が靴底の下で砕けた。ずいぶん深くまで裏庭の雑木林を走ってしまったが、いくら広いこの屋敷の中もいつかは塀に当たるだろう。もうそろそろ林を抜ける、と思った瞬間、スポットライトが降り注ぐみたいな明るい場所に出た。

「…なっ?!」

 全部、桜だ。薄いピンクが夕焼けに染まりながらも対抗するように満開でざわめいていた。

 走り抜けた林の終わり近くに、ソメイヨシノばかりが群れるように植えられた場所があり、枝枝に取り付けられたぼんぼりのような灯りが辺りをまるで舞台の上のようにその木立を明るく照らしていた。

 …そういえばモクバが何か言っていた気がする。来週末に友達を呼んで庭の桜が見たいから、今だけそのために灯りをどうこうと…。

 立ち止まったのはほんのわずかな時間。

「…オマエ、走るのけっこう速ぇのな」
  荒い息と共に、立ちつくした自分の肩へと男の額が押しつけられる。
  昨日と同じ声が、自分の耳の後ろに響いた。伸びてきた腕が身体を絡め取る。
「なんで逃げんだよ?ワケわかんねぇ」
  苛立ったようにそう言う声に目を細める。まるで当たり前のように、城之内は俺に触れたから。

 その瞬間、予想は確信に変わっていた。

「いつから気がついていた?」
  追いつめられた気持ちの苦さに震える声で、そう聞いた。
  決して俺をいい風には思っていなかったはずの、むしろ顔を合わせても罵る言葉しか投げつけてこなかったこの男が、手のひらを返したように馴れ馴れしく触れているということは、全部分かっていたと言うことだ。
「最初から」

 自分を抱きしめる腕に力が入るのがわかる。スーツの背中に押しつけられたせいか、くぐもった声でぽつりとそう呟く。
「最初…?」
  予想してなかった答えに、オウム返しのようにその言葉を繰り返す。

「一番初めにここに連れてこられた時から。最初に逢った時からオレはちゃんとオマエが海馬だって気づいてた。…目が見えなくてもさ、声とか、雰囲気とか、忘れるわけねぇだろ。たかが半年くらいでさ」

 結構、長いつきあいだぜ?

 そう付け足して、抱きしめるのに回った手が俺の手首を掴む。照れるみたいにそう言う城之内に悪態をつきたいのに言葉が纏まらなかった。
「わかってて…嫌がらせであんなことをしたのか?」
  意図が読めない。理解に苦しむ。
「嫌いなヤツとセックスなんかしないっ…て違う、そうじゃねーよ。」
  デカい手だ。俺の指をまとめて掴むみたいに握りしめる指を見る。

「好きだ。ずっと好きだったんだ、多分」

 ざわり、と桜を風が煽る音がした。仄白い花が一斉に揺れる。夕陽ももう夜に殆どとけ込んで、木々の枝で揺れる灯りが自分の朱くなった顔を照らしているのがわかる。

「…多分、は余計だ」
  そう言って掴まれたのとは反対の手で、俺を捕まえる城之内の手のひらを思い切り抓りあげてやった。

***

 俺を見てる城之内の顔が近づいてきて、あの茶色い目を瞼が覆うのをスローモーションを見るみたいな気分で眺めていると唇が重なった。見られている方が不安になるなんて、おかしな話だと思った。居心地の悪い感情に苛立つ。戸惑うのを悟らせたくなかったから、自分から噛みつくみたいにキスを返した。

「…包帯を外してもらってさぁ」

 長く口づけた後、独り言みたいにそういった城之内が、まるで不思議なものを見つけたような顔で俺をまじまじと見つめる
「…なんだ?」
「オマエのこと、久しぶりに見たじゃん。半年ぶり?もっと?」
  自分よりも背が低い城之内は、伸ばした手のひらを俺の頬に宛がう。
「ああ」
  最後に会ったのは、日付変更線の向こう側だ。あのときも、城之内はまるで学校で朝の挨拶をするみたいに俺に声を掛けた。

「頭んなかにずっといた海馬と、なんか印象被んなくてビビった。記憶で思ってたより子供っぽいんだもんな。顔とかさ。」
  そういってゆるく笑う。甘い顔なのに妙に男臭いのはどうしてだろうと思う。
「貴様、それは俺を馬鹿にしてるのか?」
  年相応であることから逃げ続けてきた自分にとって、その言葉は屈辱としてしか受け取れない。
「ちっがーう!ホメてンの!!」
  城之内は地団駄を踏むように声を荒げた。
「わけがわからん」
  この馬鹿の言うことはいつも理解に苦しむ。それは今に始まったことではない。ただ、今まではずっと相手にしなければいいのだと思っていた。なのにじっと目を見て話すその視線から俺はもう逃げられなくなっている。
「なんか思ってたのより、ずっと可愛かったからビックリした。ちゃんと今まで見えてたはずなのに、俺、なんにも見えてなかったんだなぁって思った」
  許せない。忌々しい。
  こんな男に”可愛い”などと言われてざわめく自分の心が。
「…うるさい」
  頬が火照るのがわかる。触れている手のひらに悟られてしまいそうで羞恥からやっと視線を外した、そのまま遠くの桜に焦点を合わせる。花びらの数を数えるように目を細めてた。
「海馬?」
  戸惑うように、呼ばれる名前。

「貴様のその無駄口しかたたけない唇など、今すぐ永遠に塞いでしまえ」
  そう言って、俺は城之内の顔を見ないまま、その身体を押し返して身体を離そうとした。

「うん?」
  頬から素早く回された城之内の右手が、俺の首の後ろに手のひらを添えるようにして力を込めるから、引っ張られるような形で背を曲げてしまった。馬鹿みたいな幸せ面した城之内が軽く唇をあわせた。伏せた睫が目に入りそうになって咄嗟に瞼を閉じたら歯列を舌先で舐められる。

「…なッ!」
  慌てて突き飛ばそうとしたら、先にその気配を察した城之内がするりと身を躱す。
「いつでも塞いでくれよ?こうやってさ」
  はは、と照れくさそうに笑って、俺の右手の指先を、自分のそれで絡め取る。
「こっ…!この痴れ者がっ!!」
  腹立たしい、まるで手を引くようにして屋敷の方へ歩こうとする。

 高ぶる身体の熱が冷めない。くやしい。
  なのにその手を振り解けなかった。憶えていろ、どっちが主人かすぐにハッキリさせてやる。

 意地悪い気持ちで掴まれた手を痛いくらい強く握りかえすと、首をかしげるようにした城之内が、甘い顔で笑った。

 

THE END

 


2004.3.21
text by MAERI.KAWATOH