夜と夜の恋人
act.2

 

 こんな風にケンカをするのは、初めてってワケでもない。
  ちょうど一年前にもセックスしてる最中に、ものすごく傷つくことを言われたことがあった。思えばあれから一年以上、オレは瀬人とそういう関係も持ってなかった。

 あの時も何日か口を利くことが出来なくて。

 でもやっぱり自分の世界から瀬人がいなくなることに全然耐えれなくて、何もなかったような顔をして元の鞘に収まろうとした。瀬人がそんなに嫌だったら、別にこの先ずっとエッチができなくてもいいとさえ思った。そりゃあ一人でやるにしても瀬人の顔しか、あの身体しか頭に浮かんでこなかったけど、そんなことより
拒絶されることが怖くて仕方なかったら我慢も出来た。

 瀬人とケンカするたびに、思い出すことがひとつある。

 高校に入った頃、情報処理の自習時間にやってきた担任に、IQテストをさせられた時の話だ。
  オンライン上で60題近くの質問に、次々と答えさせられていくタイプの診断だった。全部をとき終わった後にされた話が、喉に刺さった小骨みたいにひっかかったままでいる。
  やったのがアメリカのサイトでやってるテストだったから、最終的な予測数値以外、肝心の結果が全部英語でオレらにはチンプンカンプンで、担任もじゃあ簡単に説明するか、と言い出したわけだ。
「まず初めに言っておくとだなぁ。IQっていうのは100を中心にして、90から110の間に全体の半分が収まるようになってるんだ。一般的に130以上だと相当頭がいいとされるわけだが、ここで面白い話があってな。この数値が高ければ高いほどすごいのかというと、これが140くらいを境にして、それ以上は凡庸化しちまんだ」
  だらしない背広姿の教師は、そこで教室を見渡した。
「過去のノーベル賞受賞者にも実はIQが140を越えるような人物はいないって言われてる。これはだなぁ、IQっていうのが示すのは、一度に同時に処理出来る情報量を示してるからなんだな」
  前の方で髪の長い女子が手を挙げる。
「えー。でもそれならやっぱり高けりゃ高いほどいいってことになるんじゃないのー?」
  彼女は机の下の手で携帯を握りしめながらそう言った。
「そこが面白いんだよ。つまりさ、情報処理能力が高くなると反対に失われるもんもあるわけでさ、まず応用力や思考力が低くなる可能性が高くなるんだ。」
  饒舌に語る教師の講釈を、なんとなく聞き流すように机に肘をついていた。自分の結果は95だから、まぁ平均ってところなんだろう。前の席の瀬人のモニターを、盗み見るみたいに覗き込むと、155と出ていて内心ウオー!と思った。
「何で応用力や思考力が落ちやすいかと言うとだなぁ…まぁ幾つもかあげられるんだけど、オレは処理出来る情報量の多さで、人間同士で日常的に会話が成り立つかどうかが決まるって言われるのも、そのひとつの原因だと思ってる」
  教師はそう言いながら、ホワイトボードに黒ペンで40/60/80/100/120/140/160と数字を書き殴った。
「一般的にIQが20%違うと会話が成り立たないっていうんだが、これも情報処理能力の差のせいなんだがな。こう、IQの低い人間がIQの高い人間を相手に会話をすると、同じ時間内で処理出来る情報量が違うことから理解力に大きな違いが出るわけでさ、自然と低い方が会話から置いてけぼりを食らいやすいわけよ。だから会話が成り立たないって言われるんだが……こう、100を中心に全体50%が分布してるとするだろ?」
  そこで、横一線に数字を羅列した上に、今度は赤ペンでピラミッド形に線を描いた。
「とすると、IQが100の人間は、下が80、上が120っていうこの80%との人間は、対等な会話が成り立つって事になる。だけど、IQが140の人間は、全体のなんと9%未満の人間としか会話が成り立たないことになるんだ。ちなみによく天才の定義にもちだされるのは160以上のIQなんだが、これだと対等なコミニュケーションをとれる人間の数は、全体の僅か3%ってことになっちまう」
  数学の教師らしい数の理論を繰り出しながら、スラスラとパーセンテージを書き殴っていた教師が、ペンをパチン、とホワイトボードの下台に置いた。
「まぁ、IQって判断基準で人間を判断するのも割と馬鹿げた話だぜってのが、オレが言いたいことだったわけだな。バランスって言うかさぁ。そういうのを大事にして欲しいんだよな、おまえらにはさ」
  なんていい教師ぶったことを言う担任に、クスクスと辺りから笑いが漏れる。

 でもなんかオレの頭には、さっきのぞき見た瀬人のモニターの155って数字ばかりが頭に残って、そんなセリフは正直、上の空だったんだ。

「なぁ。センセー。IQってどーやった上がるの?」
  授業の後に、そう聞きに行ったら、案の定、ゲラゲラと笑われた。
「なんだ、城之内。オマエもそーゆーのに興味があるのか?」
「いや、違うけど。それが低いと頭のいいやつとは会話になんねーんだろ?」
  つまりオレと瀬人じゃ元から釣り合わないってことになっちまうんだ。
「…オレはさっきああいう話をしたけどさ、IQってのは、もともと知能指数と言うよりはその年齢における精神年齢を測る指標みたいなもんに過ぎないんだから、そんな絶望的な顔して考えこまんでいいぞ。そんなことより大事なことが人間にはあるんだって事がオレは言いたかったんだ。オマエならそういうのわかるだろ?」
  そんな適当なことを言ってオレの両肩を叩くと教師は職員室へ
と歩いていった。

 155(瀬人のIQ)−95(オレのIQ)=60

 オレと瀬人とを隔てる距離みたいに感じだその60という数字。
  あのとき担任が言ったように、お互いが上下20のIQを持つ人間とした、釣り合った会話が出来ないのだとしたら、その数字はとても険しい隔たりのような気がしてならなかった。だからこんなにしょっちゅうケンカしたりしてんのかな、と内心かなりへこんだんだ。

 今頃になってそんなことを毎日思い出すのは、ケンカしてることだけじゃなくて、この間瀬人の部屋で見てしまった書類のせいもあるんだと思う。

「えー…と、か、海外特別研究員、募集、要項?」

 今日みたいなバイトの帰りに寄った瀬人の部屋で瀬人が妙に深刻な顔で読んでいた書類を取り上げた。
  辿々しく読み上げたけど、書いてることがその文も感じも難しすぎて、さっぱりわからなかった。
  ただどこかの企業の留学の募集要項みたいなもんだと言うことは辛うじて読み取れたから、もう瀬人は卒業後の進路のことを考え出してるんだと思っていたんだ。
  勿論、同い年のオレもそういう将来のことを考えたことがないワケじゃなくて、むしろ毎日どうやったらこいつと毎日顔を逢わせて家族みたいに暮らせるだろうって、そんな事ばっかり考えてたから、もしかしたら留学なんつってこの街から瀬人が出て行ってしまうことを想像して、オレはなんとかしないと、と内心かなり焦っていた。だから焦る余り、あんな事を言ったんだ。

「来年、卒業したらさぁ。おまえもここでなきゃなんないだろ?俺ちゃんと就職するからさぁ。そしたらおまえもモクバも一緒に」

 じゃれるみたいに二人で床に転がりながらも、オレはどさくさに紛れて久々に瀬人の身体を思い切り抱きしめていた。
「そういうことは、好きな女にでも言うんだな」
  なかなか崩すことが出来ないポーカーフェイスにいつだって内心泣きそうになる。あの時もちらついたのは、あの日の60というIQの差を現す数字だった。そのことを考えると、オレみたいな馬鹿じゃ瀬人の家族になんてなれねぇのかなぁと半ば絶望的な気分になった。
  今にして思えば、あの時感じた悪い予感が、後になって痛いくらいに当たっていたことに我ながら眩暈を覚えた。

 どんなにオマエの前で軽口を叩いても、どんなにいいかげんなフリを重ねても、本当のオレはすげー臆病で、オマエのことに関してはいつもスゲー不安で、不安で、しょうがなくて。
  あの夜だって、こんなにいつでもキスすることが出来るような距離に瀬人はいたっていうのに、まるで地球の裏側に連れ攫われるような恐怖に怯えて、思わず瀬人の身体を抱きしめる手に力を込めた。

「――――――――オレは、おまえのことが好きだ」

 その言葉についにあの夜、最後までどんな返事が返ることもなかったことまで思い出す。


* * *


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